デイヴィッドは何故エミリーを避けるのか(1) ディケンズ 「デイヴィッド・コパフィールド」

1.
エミリーの駆け落ち以降、デイヴィッドはエミリーを避け続け、最後まで二人が対面することはない。そればかりかデイヴィッドは駆け落ちした後のエミリーについて、どう思っているのか語ろうとしなくなる。依然としてエミリーの動向については記されるが、起きた出来事が辿られるだけで、デイヴィッド自身の感情や心理については述べられず、彼の本心はひた隠しにされる。

二人の隔絶が決定的となるのは30章。バーキスの臨終に立ち会うために、バーキス家を訪れたデイヴィッドは、駆け落ちを前にしたエミリーと屋根裏部屋ですれ違っている。この時デイヴィッドがエミリーを見て見ぬ振りをする描写には異様な印象が残る。

あとで、私も、二階へ上がって行ったのだが、ふと、真っ暗な私の部屋の前を通りかかったとき、見ると、中で、どうも、たしかに彼女らしい女が一人、床の上に、うつぶせになって、倒れていたような気がするのだが、もっともそれが、果たしてほんとに、彼女だったか、それとも、ただ部屋の中の影のまぎれだったか、今もって、私は、はっきり、知らないのだ。(30章)

デイヴィッドは作中で幾度もエミリーを避け、場合によっては理由なども付けられているのだが、この場面においてはエミリーの存在すら認めようとしていない。そのうえエミリーを見ていない可能性を妙に強調し、事実を曖昧にしている。エミリーを通り過ごしただけなら他でとられた行動と変わりないため、かえって不自然さが際立つ。

ここでは語り手によって、起きた出来事が隠ぺいされた疑いがある。デイヴィッドの記憶が、事実と向き合うことを拒むような事が起きたのだ。

時系列もおかしい。記述では、
1.ハムが帰り、ダン叔父さんとエミリーが二階に上がる。
2.デイヴィッドが二階へ上がる際の様子が挿入されて、屋根裏部屋のエミリーについての印象が語られる。
3.再び場面が一階に戻されて、デイヴィッドが「エミリーの死への恐怖」について考える。
4.台所に降りてきたペゴティーと二階に上がる。
となっている。

つまりデイヴィッドが二階に上がる(4)の前に、屋根裏部屋にいるエミリーの様子(2)が先に記されている。正しくは1342の順で、事が運んでいるはずなのだ。

このような場面の「入れ替え」によって何が起こるかというと、(3)で語り手が述べる「エミリーの死への恐怖というものを、ゆっくり、いろいろ考えてみた」の一文が、何にかかっているのか分かりづらくなる。
デイヴィッドが(3)で「考えてみた」こととは、まだ台所にハムやダンと一緒にいた際(1)のエミリーについてであって、屋根裏部屋で一人でうつ伏していたエミリー(2)とは全く関係がない。しかし語り手は屋根裏部屋にエミリーがいた様子を先に記すことで、まるで(2)でのエミリーについて語っているかのように見せかけている。

これにより読者は、屋根裏部屋でうつ伏すエミリーは「死への恐怖」に怯えていたのだと、錯覚させられてしまうのだ。実際には(2)で屋根裏部屋にいたエミリーの印象については、何も述べてはいない。この語り手の「ごまかし」こそ、出来事が隠ぺいされた何よりの痕跡ではないだろうか。

2.
ではデイヴィッドが隠した事とは何だったのか。このことは物語を読み進めた読者には容易に見当がつく。
前の章ではスティアフォースによって逃亡の企てが仄めかされ、既にエミリーにも駆け落ちの心構えがついている。台所ではデイヴィッド、エミリー、ダン、ハムがいて、エミリーはダンに甘える振りをすることで男たちの目を欺く。彼らはエミリーがバーキスの死に怯えていると思い込んでいる(1と3)。
その後二階へ上がったデイヴィッドは、屋根裏部屋にいるエミリーからただならぬ気配を察していることから、彼女の本心を垣間見たはずだ。恐らくデイヴィッドが見て、本文から隠したのは、スティアフォースに手なずけられ、ハムを裏切る決意に揺れているエミリーの様子だ。

しかし語り手はこの場面を記すことが出来ない。その理由の一つは作中で類似する場面から引き出せる。語り手は他にも、女が誘惑され、惑わされる場面を目撃すると、思考を放棄するように記述を避けているからだ。

ペゴティーと私だけで、けっこう母を大事にすることくらいできるのにという、いわば漠然たる理由以外に、もし何か理由があったとしても、おそらくそれは、もっと私が大きかったら感じたであろう、そんな理由ではなかったに違いない。そんな考えは、もうとう浮かばなかったし、また浮かびそうにもなかった。(2章)
あのときの表情、私は、今でもはっきり憶えているが、そのくせ、それが、何を表しているか、私には少しもわからなかった。現に今も、はっきり、目の前に浮んでくるほどであり、今の私なら、もっと分別もできているはずだが、それでも、やっぱりわからない。(16章)

これらはクララがマードストンに、アニーはモールドンに誘惑された後のことで、2章では遠回しな言い方がされているが、どちらも大人になった今でも分からないことだと、語り手は言及できずにいる。クララはペゴティーが制止するのも構わず、派手な服を着てマードストンの元へ通い出しており、既に身も心も委ねた後のことのようだ。16章ではモールドンに誘惑され、欺かれかけたアニーが動揺を隠せずにいる。アニーはリボンを奪われただけで済んでいるが、この場に居合わせたデイヴィッドは強いショックを受け、以降彼女が無垢に見えなくなった(19章)と語っている。アニーの疑いが晴れるには10年かかっている。

デイヴィッドは母の臨終の様子をペゴティーから聞かされると、「私の記憶の中にいる母は、はじめて私が物心ついたころの若い母の印象だけ」になったと語っている。クララはマードストンとの恋に入れ込むと、自分を正当化して欲望に従い、子供がいるせいで傘も買えなかったと犠牲者ぶったあげく、彼女の身を案じるペゴティーには息子の矛先を向けさせてまで自身を正当化する。母に裏切られ、自分を守ってくれず、一人残されたデイヴィッドは、マードストンの意のままに操られた母の愚かな姿を記憶から消し去ることで、幼年時代の思い出を守っている。
誘惑された母の面影を歪ませたデイヴィッドは、記憶の混在を避けるために、アニーとエミリーの内面に踏み込んで正しい感情を読み取ることを拒んでいるのだ。

母の死を聞いた瞬間から、この頃の母に対する私の印象は、すっかり消し飛んでしまっていた。そのとき以来、私の記憶の中にいる母は、はじめて私が物心ついた頃の若い母の印象だけ――いつも美しい巻き毛を、くるくると指先へ巻き付けていた母、黄昏の中で、よく居間で一緒にダンスしたころの母、それだけだった。
その死とともに、母の姿は、再び平和だったあの若い日の母に舞い戻り、そのほかの影像は、すべてかき消されてしまったのだった。(9章)

デイヴィッドが隠したのは、駆け落ちを前に動揺しているエミリーの姿だけではない。彼が過去を清算できなかったが故に、この時エミリーを引き留める機会や可能性を失ったという後悔、未熟な自分自身の姿が隠されている。デイヴィッドがエミリーについて語らなくなるのは、正確には駆け落ち以降ではなく、屋根裏部屋にいるエミリーを通り過ごしたこの場面からだ。その事実も、場面の入れ替えによって不明瞭にされている。

3.
ただし疑問はまだ残っている。上述したクララやアニーについての場面とは異なり、ここでは語り手がエミリーを見た事実すら記せずにいることだ。その理由は駆け落ちを見過ごした責任などではない。1つ前の29章では、後に起こる波乱と、スティアフォースとの別れを、語り手が直接予告し、駆け落ち後もスティアフォースには変わらぬ愛情や尊敬を表明している。
語り手が場面を入れ替えてまで隠しているのは、駆け落ちでも、エミリーの動揺でもなく、デイヴィッド自身が「考えてみた」ことにこそ核心がある。

あとで、私も、二階へ上がって行ったのだが、ふと、真っ暗な私の部屋の前を通りかかったとき、見ると、中で、どうも、たしかに彼女らしい女が一人、床の上に、うつぶせになって、倒れていたような気がするのだが、もっともそれが、果たしてほんとに、彼女だったか、それとも、ただ部屋の中の影のまぎれだったか、今もって、私は、はっきり、知らないのだ。(30章)

再び語り手の記述を読み返してみると、エミリーがいた屋根裏部屋とはペゴティーからデイヴィッドに用意された「私の部屋」であり、彼が見たのは「部屋の中の影」ではなかったかと述べている。ここでデイヴィッドは、エミリーが自分自身の影のように見えたことを暗示しているのだ。

のちに示すように、この時のデイヴィッドは過去への決別(22章)と、過去との再会(26章)を短い期間で経験し、幼年時代の面影を蘇らせてくれるドーラに強く惹かれている。
かつて同じこの家で、エミリーはマーサに同情し思い上がりを棄てようと誓い、デイヴィッドも彼女に共感し、過去への執着から離れ始めていた。ところが、エミリーはスティアフォースからの誘惑によって、デイヴィッドはドーラとの出会いで、一度閉じたはずの夢が蘇ってしまう。二人の迷いは重なり、デイヴィッドは再びこの家でエミリーに共鳴を起こしている。レディとなる夢に揺れ動くエミリーの様子は、母への未練が蘇ったデイヴィッド自身を反映した姿や影となって、彼の目に映っているのだ。

この場面でデイヴィッドの内では、意識的か無意識的にか選択が行われている。過去の夢を絶って成長を受け入れるのか、それとも失われた夢を追い続けるのか。デイヴィッドは潜在的に過去の夢を追うことを肯定したかった、そのためかつて愛した少女が夢をかなえ、幸せを手に入れようとする姿に同調していたのだ。この一連の駆け落ち騒動の直後に、デイヴィッドがドーラに婚約を取り付けているのも偶然ではない。

屋根裏部屋のエミリーを避けたデイヴィッドの選択には、彼の強い願望が反映されている。その選択がエミリーにとって重大な結果をもたらしたことを、デイヴィッドは自覚している。共謀者として罪の意識を背負ったデイヴィッドは、駆け落ちを容認することも出来ないが、非難できる立場にもいない。以降エミリーについては口を閉ざしたまま、その秘密を隠し通そうとする。

幼年時代にエミリーとの結婚を思い描いていたデイヴィッドが、なぜ彼女を避けるようになったのか。語り手は明確に語ってはいないが、二人が離れていったいきさつから追うことができる。

 

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