1.
2章の終わりでヤーマス行きの馬車に乗ったデイヴィッドが、おとぎ話で読んだ捨てられた子供のことを思い浮かべているのは、自分も母に捨てられようとしていることを察しているからだ。ペゴティーがヤーマス行きの話を持ち出した際のよそよそしい様子や、あっさり承認を与えた母の不自然さに、もちろん子供は気づいている。デイヴィッドがヤーマスから家に帰ると、母はマードストンと結婚しており、自分は式を挙げるためにていよく追い出されていたのだと知る。しかし人を疑うことを知らず、物事を変える力を持たない子供は、過去にさかのぼってまで母を庇う。ヤーマス行きを誘ったペゴティーの不自然さは書き記しながら、母がいかに失敗を隠しきれずにいたかには一切触れようとせず、ただ別れ際に二度もキスしてくれたことだけを思い出す。母が子よりも男を選んだことを未だにデイヴィッドは受け止めることが出来ないのだ。
「私は、本当に、エミリーを愛していた!」「このまま年もとらず、なまじの知恵もつかず、いつまでも子供のままで、手に手を取って」「そしてもし死んだら、小鳥たちに埋めてもらう」(3章)
誘惑された若い母の過ちを清算できないままのデイヴィッドは、同じく若く美しいエミリーが過ちを繰り返してしまったことにも向き合えず苦しめられている。デイヴィッドには幼年時代のエミリーとの愛を最上のものとして扱い続けたり、ドーラの美しさに惹かれたことを正当化したりと、アグニスと家庭を築き上げてもなお満たされない喪失感や、美や恋への憧れといったものが抑えこまれたままでいる。たびたび思い返しているドーラとの恋路では、恋の情熱があらゆる分別や作法など打ち破って優先されるものだという、確固たる価値観が表れている。
デイヴィッドは「小さな家政婦」であるアグニスと結婚し、現実的な暮らしを送っているものの、心の底ではドーラのような魅力的な女性への憧れが存在し続けている。そのため、同じような野心を抱いたエミリーの失敗についても、心の中で清算できないままでいるのだ。
2.
その調子には、何か昔の誇りというか、そんなものの名残が出ているようにさえ思えた(47章)
表向きでは別れた夫を死んだものとして扱い、墓に閉じ込めたと語る叔母ベッチーだが、実際は元夫に金を渡し続け、逃亡の手助けまでしている。ベッチーが守りたいのは落ちぶれた元夫などではなく、男との暮らしに夢見て、幸福を期待していたかつての自分自身の姿だ。若かりし日に抱いた希望や、純真な愛情は棄てられず、何をもっても埋められない喪失感が胸の奥底に秘められている。
愚かな過ちであったと自戒しながらも、無垢な思い出を守り続けようとするベッチーは、30年以上経てから涙ながらにその実情をデイヴィッドに打ち明けている。いつかデイヴィッドにも、エミリーを語れるようになる日が来るのかもしれない。