アニマの追求 「漁師とその魂」 ワイルド

1.
風が浜辺の方へ吹くと魚がよく捕れるという記述には、漁師の意識が変化する様子が、風の吹く様と相応して表されている。それに加えて、人魚を引き上げる際の腕の力は、「青銅の花瓶の青いエナメルの線」などと形容されており、漁師の持つ美意識や芸術性が感じられる。芸術品のように美しい人魚と接触すると大漁に恵まれていることには、漁師の感受性や創造性の高さが見出せる。やがて漁師は人魚に愛情を抱いていく。

ただし神父からは、人魚は「善悪の別さえ知らぬ野のけだもの同然」であり、人魚のために魂を捨てると「天国もなければ、地獄もない」と言われていることから、漁師が得ようとしている幸福には、現実の倫理や道徳に背くような行為を伴わなければならぬことが分かる。

異性に対して都合よく思い描いた願望や憧れといったものは、現実での異性とのぶつかり合いによって、大きなずれとして認知される。身勝手な理想に応えてくれる相手など存在せず、思い込み、思い上がりを押し付けることなど、不可能であることを自覚させられる。自己の内部を向いた目が外へと開かれていくと、美化された異性像は修正されていき、互いに理解を深め合いながら親交は結ばれていく。
ようするに関係性の構築には、欲求の見直しや妥協といった、自己の犠牲や改革が必要とされる。

ところが漁師は心の中に秘められた理想的な異性像として、人魚を見出してしまう。この人魚とは、後に神父が半身半羊人などと同列に扱っているように、半分獣となった人間、つまり獣同然にまで堕落して、欲望に忠実に生きる人々を指している。それは恐ろしい悪徳であり、同時に誘惑でもある。
欲望を無条件でかなえてくれる人魚との一体感に埋没してしまうと、人間だけが持つ魂、すなわち人間性を失う。そのため神父からは「卑しい肉の愛」などと呼ばれ、非難されている。

そんな独りよがりな境地に至るために、漁師は現世の倫理から外れた罪を背負わなければならない。漁師が海の底で人魚と愛を交わしている間、切り離された影、つまりもう一人の漁師が陸で暴威をふるっている。これは人魚との愛を得るために必要とされる代償を、影が支払わされているためであり、漁師が犯した罪の重さを物語っている。

影は切り離される前に心が欲しいと訴えるが、漁師は人魚を愛することのみに心を独占し、影を冷たく追い払った。魂を持って生まれてきた人間が、ただ欲望の充足のみに心を向けると、人としての務めを果たさず、他者への思いやりを一切持たず、世間的な常識にも法にもとらわれない、身勝手で迷惑極まりない悪に置き換わる。そのため影は漁師の意志が反映された別人格として、地上で悪辣な略奪を繰り広げている。

作中では影の方が悪行を働き、素朴な漁師を悪に引き込もうとしているように見えるが、元はと言えば漁師が他者を犠牲にして独りよがりな幸福を享受しているためだ。素朴そうに描かれた漁師は、自らの幸福を追求するという意味においてのみ一途で純粋なのであり、そのために他者に苦を押し付けようが一切気にかけることはない。

人間的な感情を完全に抑え込むことなどできないために、漁師は意識や人格を分離させて、影にあらゆる苦難や葛藤を押し付けている。そうして日常性の侵入を防ぎ、人間性を捨てて幸福を得た漁師は、神父が説いた言葉通り「善悪の別さえ知らぬ野のけだもの同然」の姿となっている。

ただし理想を追い求めた漁師から見れば、欲求に枷をはめようとしてくる現実の方こそ悪に映っている。そして作者は、幸福への崇拝と希求をひたむきに続け、敗れ去った漁師の人物像を、極めて素朴で純真なものとして描いている。

2.
魂の捨て方を知るために、無垢な漁師は神父に相談しに行く。教会で人魚と同列の存在として語られているのが、これもまた森に住む半人半羊神という獣人であることにも、非人間的な理想を追い求めている様子が認められる。
このような欲望に駆られたり、誘惑に耳を貸すこと自体が危険極まりなく、相談を受けた神父が恐れをなして厳しく諭しているのも当然だ。神父もまた人魚からの誘惑と戦っていると述べる通り、身勝手な理想や願望といったものは誰しもの胸の内に抑えられている。ここで神父は一般の道徳や倫理に順応して生きるよう、漁師に諭している。
神父は「人魚は善悪の区別も無い」と説くが、漁師は魂を捨てたい、天国もいらないなどと言い出して聞き入れようとしない。己の目的以外は眼中になく、この時点で既に神父の言うけだものの姿に近い。漁師は人魚との愛以外には、何の意味も価値も見出せないのだ。

次に訪れる市場が価値観の入り混じる場所としてクッションの役割を果たすと、魔女の住む洞穴へとたどり着く。
魂を切り離そうとする漁師の試みを聞くと、魔女も震えおののき、引き留めようとしてくる。これは魔女も人間社会と結びついた存在であり、悪としてこの世の秩序の安定を担う役目を受け持っているためだ。魂を切り離され、人間性を無くすと魔女の管轄外となってしまう。
神父が現実における善の側にいれば、魔女は悪の側に位置している。漁師が求める愛がどちらにも属さない、人間離れしたものであることが両者の言葉から分かる。現実の道徳に従うよう諭した神父の言葉にも、現実で堕落するよう誘惑する魔女にも、漁師は耳を傾けない。

漁師がやってくると、魔女は魔法の持つ力について聞かせている。人魚は幻想的で美しい海の世界について歌って漁師を魅惑したが、魔女は地上での富や権威を仄めかして漁師の欲望を煽ろうとする。
このことからも、魔女が漁師に差し出そうとしたのは世俗的、物質的に地上で得られるあらゆる快楽といったものだろう。悪い魔女からすれば、権力や金銭の魅惑に心動かされない人間がいるなど、悪の名折れであり、看過できないことだ。そのため人魚に対抗心を燃やし、漁師を地上に引き留めようとする。

夜会ではダンスで漁師を魅了しかけている。ここで人魚とのためには魂も捨てると言っていた漁師が、ダンスで魅惑されかけているのは後の伏線となる。
ダンスをするには、足をつく地面と足を持つ相手が必要となるため、地上における人間同士の営みや、人間関係の構築といった意味を含んでいる。ダンスにしろ実生活にしろパートナーになるには相手の意を汲まなければならず、自分の望みが全て叶うわけではない。人間関係とは不完全な結びつきであり、ここに海における人魚の愛との違いがある。

人魚への愛が勝った漁師は、魔女を服従させるために効果的な方法として十字を切り、信じてもいない神の名を念じるなど、手段を厭わず、悪魔すら逃げ出す非情さを示している。
漁師の一貫した意志は、神父の説教にも動じない精神と、魔女からのあらゆる誘惑を退けることで裏付けを得る。こうして地上の道徳にも快楽にも動じなければ、現世の規範からも価値観からも逸脱した、非人間的な像へと至っていく。

ひたすら身勝手さと独善ぶりを示して、人間的な感情を切り離すために必要となる心構えを獲得した漁師は、苦しむ魔女からの忠告も、切り離される影からの哀願する言葉も、取り合わずに追い払う。既に「善悪の別さえ知らぬ野のけだもの同然」の心を手に入れており、魔女から手に入れたナイフとはただの手段にすぎない。

3.
こうして理性や葛藤を切り離して享受する愛が、いかほどの幸福を生むかは想像もつかない。したがって漁師と人魚との幸福な3年間については何も描かれない。
その反面で、切り離された影が引き受けねばならなかった苦についてが語られる。漁師と影は二人で一つの人格であるため、漁師の幸福の代償として、影が脅迫、略奪、殺人、さらには「どうでもいいのですが」などと言葉にもできない怪しげなことに手を染めなければならなかった。影は漁師の全体性を支えるために働かされているので死ぬことも出来ず、何を手にしても満たされることはない。漁師と一つに戻ることのみを救いとしている。

影は旅の行程で、一度目は商人に混じって町に入る。二度目の旅では市場そっくりの町に紛れ込んでいる。ここで再び市場や商人が出てくる。商品を取り扱う職業や品物が売買される場所は、価値観が混じり合い、頻繁に変容が起こなわれ、誰もが公平な立場でいられるため、影が潜り込むにはうってつけだ。心を持たない影は取り引きや駆け引きに強く、人心を圧倒して地上の宝を奪い取る。

影から知恵の鏡や富の指輪を差し出されても動じない漁師だが、3年目に少女の足について聞くと欲望を抱く。今度の話は過去2つの陰惨な内容とは打って変わって、陽気で賑わいに満ちた宿屋が舞台で、人間らしい温もりや愛着が息づいている。人間的な感情を切り離し、人魚との愛に溺れたはずの漁師は、同じ足を持つ人間同士でしか築かれない営みに惹き付けられると陸に戻り、再び日常性と結び付けられていく。
漁師は少女に会いたいがために影の言いなりとなって行動を起こしていく。人間が共同体に属する必要性や、人との関わりや繋がりを持つことがいかに避けられぬ問題であるかが、漁師の行動に表されている。

既に善悪の判断もつかなくなった漁師は、迷いもなく盗み、暴行、不義理を働かせていき易々と悪に染まっていく。同時に「よくない」「悪人」などと罪の意識を覚えていく。影が一向に宿屋へと案内できず、金を使って遊ぶように趣向を変えて口説いているのは、話が嘘であったほかにも、心を持たないために温かい場所へも辿り着けないためだろう。少女に会いに行ったはずの漁師は、悪行を働かせることでしか人との関わりを持てないのだ。
ついに漁師は影に企図を問うが、影は逆に漁師に責任を問いただしている。

「あなたはわたしに心をくださらなかった、それでわたしは、こんなことをすることを覚え、こんなことが大好きになったのです」
「どんな苦しみでも、あなたは振り捨てられますし、またどんな楽しみでも、手に入れることができる」

影は自分が切り離されてからの体験を漁師にも再現させている。こうして両者の立場が反転する。漁師は自分の幸福のみに心を向け、他者に思いやりを持たなかったことが、どのような影響を及ぼしていたのかを自覚させられる。人間らしい罪悪感や良識などの侵入を受けてしまうと、二度と独りよがりな幸福にふけることは出来ない。ナイフを使っても再び影を切り離すことは出来ず、入江に戻っても人魚の姿を見ることは無い。

漁師は入江で人魚に呼びかける、影はあの手この手で漁師を誘惑する。そうして2年間、そばで過ごしていくうちに漁師と影は互いに行いを反省し歩み寄っていく。漁師は人魚を待ち続けながら、同時に影が自分を待ち続けていた苦しみを理解していく。閉じられていた心が外へと開かれ、漁師と影は再び一つの人格に戻っていく。

「いいとも。心を持たずにこの世をさまよい歩いていたころは、おまえもずいぶんつらい思いをしたにちがいなかろうからね」
「でもわしは、おまえの手助けをしてやれればいいと思うのだが」
漁師がそう言ったとき、海から、大きな悲鳴が聞こえました

漁師が一般的な良識や道理を覚えたしるしとして、他者を思いやる言葉を口にすると、その直後に人魚は死んでいる。現実の規範に従おうという責任や理性に目覚めた瞬間、非日常への追及は終わり、扉は閉ざされるのだ。魂を持つ人間として生まれてきた以上、漁師も結局は地上に縛られることになる。

「おまえの手助けをしてやれれば」と、影に見せたいたわりの気持ちこそが地上では愛と呼ばれるものであり、人魚の死と同時に新しい生き方が開かれているのだが、漁師は人魚のいない世界には生きる価値が無いものとして死を選ぶ。最後は自分に欲望をもたらすことになった海に呑まれているが、これは自分自身の理想や創造性の大きさゆえに、現実の卑小さに幻滅してしまったものだ。
追い求めた幸福が絶対に届かないものであることに気づくと、人魚は残骸として目に捉えられる。幻想が破られると愛でいっぱいだった心は砕けて魂はもとに戻り、普通の人間として死んでいく。

エピローグとして彼らの死体が葬られた場所には花が咲き、その芳香が神父の言葉を変えて、人々の心を動かしている。これまで堅苦しい道徳観に縛られて生きてきた神父に、空想的な憧れや願望が持つ力が注ぎ込まれたことで創造性が備わり、万人の心に響く豊かな表現力が得られている。

 

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