1.
入院中の彼女は、思春期の成長過程そのものを詩にしている。「胸」を手術していたり、「夢」を元に作られた詩の内容は、彼女の心の動きと関連し合っている。詩のテーマといい、植物に囲まれながら眠る女を異性が起こしに来る展開といい、まんま「眠りの森の美女」のパロディーとなっている。
思春期においては塞ぎ込んだり、内に閉じこもったような状態になるが、心の中ではうごめく性衝動と向き合いながら、子供から大人へと大きく作り替えられようとしている。めくらやなぎは上には伸びていない、外見からは変化が認められなくても、根の方つまり心の中では暗闇へと伸び、根を張るような成長をしている。小屋を訪れる男の存在は、やがて来る異性関係に向けた準備を着々と進めていることを意味している。
暗闇は不安や恐れを抱かせるが、未知の問題や混乱に直面しながら自我は作られていく。暗闇は「養分」と呼ばれているように、成長に不可欠なものであって決してネガティブな意味はない。
彼女の補足によると、女の肉は耳から侵入してきた蠅に食べられてしまっているとのことだ。話を聞いた友だちが、「食われちゃっていたんだろ?」と問うと、彼女は「ある意味ではね」と応える。さらに友だちが「ある意味では悲しい話なんだろうね?」と問うと、彼女は「ま、そうね」と言って笑う。
友だちには成長が失われるものや悲しいものにしか映っていないが、彼女は別の見方があることを示唆している。蛍、めくらやなぎ、ノルウェイの森と共通して描かれる身体問題は、全て心の問題が表面化されたものであり、食べられた女の肉についても、成長に伴う心の喪失が表現されたものととれる。大人になるにつれ純粋さや理想は失われていく。
子供のまま死を選ぶ友だちは、めくらやなぎの詩を「残酷で暗い」と捨て去っているように、成長を受け入れられていない。このカップルは「蛍」で肉体関係に進展しなかったことが明らかにされるように、友だちは眠る女の家に辿り着くことはできなかった。一方でなんとか生き延びる主人公は、「面白い」と少しは理解を寄せている。
外の社会へ出て行く時期を迎えている彼女と、いつまでも子供の世界に閉じこもりたい友だち。17歳の彼らが直面している肉体の不通問題は、二人の心の不調和に原因がある。
友だちは主人公が女の服を脱がそうとした失敗談を面白おかしく語るなど、共に異性と結びつけずにいることを喜んでいるようだ。二人の男子は見舞い品のチョコレートが溶けるのも構わず海岸にバイクを止めて語り合い、青春を謳歌したりと、まだ子供のままで過ごす時間が楽しくて仕方がない。やがて友だちは自殺し、彼女は自我を確立する前の段階で硬化してしまう。
彼女は一人離れた場所で入院生活を送りながら、成熟へのビジョンを思い描き、自分が辿っている過程を詩で表現して男たちに見せている。しかし3人の中で成熟へと向かっていたのは彼女一人だけだった。
しばらく考えたあとで、僕は自分の中に痛みに関する記憶が殆んど残っていないことに気づいた。時間が経つといろんなものが、本当にあっさりと消えてしまうのだ。
痛みの記憶を忘れながら歩んできた24歳の主人公は、彼女が書いた詩の内容も思い出せず、いとこの痛みについても共感できずにいる。海岸で友だちと語り合った思い出に囚われ続けたり、仕事は続かず実家からは動き出せないなど、未だに精神的な自立を得られていないようだ。
2.
「いや」と僕は言った。
「僕はこの前テレビでやってたのを観たんだ」といとこは言った。「面白い映画だよ」
「うん」と僕は言った。
病院の門から緑色の外国製のスポーツ・カーが出てきて右に曲り、坂を下っていくのを我々は眺めた。スポーツ・カーには中年の男が一人で乗っていた。車は太陽の光を浴びてとても気持よく光っていて、まるで成長しすぎた虫のように見えた。僕は癌のことについて考えながら煙草を吸った。それから凝縮された生き方の方向性について考えてみた。
「映画のことだけどさ」といとこが言った。
いとこは観た映画の話題を振ろうとしているのに、主人公は相手にせず景色を観察したり、考え事をしたり、煙草を吸ったりと上の空で、話に関心を示そうとしない。仕方なくいとこは再度話題を振って、ようやく映画の話を始められている。
「え?」といとこが言った。
「不便じゃない?」と僕は煙草を手に持って言いなおした。
主人公の会話する気の無さは態度にも表れている。蛍で彼女に意思を示せなかった主人公は、めくらやなぎでもいとこと会話を作ろうとしない。上手くコミュニケーションが取れずにいるのは、彼女やいとこの病のせいなどではなく、主人公側の姿勢に原因がある。
いとこは時間を尋ねたり、バス料金を確認することで、なんとか心を閉ざした主人公と繋がろうと話しかけてくれる。不便であっても時計を壊れたままにしているのは、「誰かに聞ける」と応えているように、他者とコミュニケーションを取る機会が作れるためだ。言葉をつまらせたり、話しかけようとしては止めてしまう主人公に、いとこは何度も時間を尋ねて会話のきっかけを生もうとしてくれる。
眠る女が男を待っていたように、いとこも自己を表現するための相手役を必要としている。主人公は蛍でもめくらやなぎでも、求められている役を果たせていない。
人目に付くようなインディアンや、耳が病気として表出されているいとこなど、問題が目に見えて把握されているうちは深刻さはあまり無い。彼女ともいとこともコミュニケーションを取れず、その原因が自分の側にあることに気付けていない主人公の方がよほど危ういのだ。
3.
・バスは山の斜面を登り、延々とつづく住宅街を抜け、僕の高校の前を通り、病院の前を過ぎ、山の上をぐるりとまわって下に降りてくる。どこにもいかない。
・バスはそこで方向を変え、別の斜面を下って、行きと同じルートに戻っていった。
・バスは循環路線なのだから、ぐるりと一周してもとの場所に戻ってくる
結局、主人公といとことの距離は何も変わらぬまま、バスに乗って帰っていくようにみえる。しかしこの病院では、太字で強調されている重要な記憶を、ひとつ思い起こしている。バスを待ちながら、眠る女といとこの病とが、どこかで繋がることにも気づいている。叔母には病院へ「何度かつきそって」いくと約束したことだし、いとことの付き合いはまだ続いていく。
作中では何度もバスが循環路線であるとの説明がされている。2人は来た時と同じ28番のバスに乗って、行きと同じルートを「ぐるりとまわって」帰っていく。太字の記憶を思い起こす前にも、スプーンの両端を手で持って「輪のような形」を作っていた。円や輪は全体性を表現しており、主人公は円を描くように心の底へと降りていきながら、過去の記憶や埋もれた感情を掘り起こしている。高校時代に乗っていたバスと同じバスで病院へと通いながら、ぐるぐると過去への道筋を繰り返し巡っていくうちに、思い起こす記憶も増えていくだろう。この物語はそんなほのかな希望を含ませて終わっている。
4.
バス内では病院で記憶を思い出すための下準備がされている。車内の奇妙さには、「聴覚の一部を不自然に刺激」されて、まずは「耳」で気づいている。「車両のいちばんうしろ」に立っていた主人公は、路線図を確認しに運転席まで行くと、戻る最中にバス内の奇妙さの原因を理解する。ここでは直線状ではあるが、「行きと同じルートに戻る」動きをすることで、円と似た働きがされている。路線図を見ることには過去の記憶と現在とを照らし合わせたという意味がある。
主人公が戻る動作をする最中には、二人の老婆が足を通路に突き出して「波みたいに上下に」揺らしている。
いとこも耳が聞こえなくなり、再び聴こえ始める過程について、「波が上下するみたい」だと、全く同様の表現を用いて説明している。
耳をふさぎ、痛みの感覚を忘れ、他者と交流を持たずにきた主人公が、過去の記憶へと向かいながら、耳が「聞こえ始める過程」にいることを、ここで老婆たちは「波が上下する」動きをすることで表現している。病院に着くと、風景に既視感を感じて高校時代を思い出していき、やがて彼女の詩へと、古い記憶が辿られていく。
行きのバスは新型で車内は老人でいっぱいになっていたが、帰りは「見覚えある古い型のバス」に乗って帰っていく。現在から過去へと円環するルートを辿りながら、現在「ぎっしり詰まっている」という古い記憶を吐き出し、過去を回想していくということだろうか。
※「めくらやなぎのためのイントロダクション」によると、めくらやなぎとノルウェイに関連性は無いとのことだが、入院に関するエピソードはばっちり辻褄が合っている。これはノルウェイに出てくる損なわれた状態の36歳と、まだ希望を残しているめくらやなぎの24歳とをパラレルな存在にしておきたいためだろう。
※眠りの森の美女
王様と王女様の元に待望の一人娘が生まれる。つまりお姫様は過保護に育て上げられるのだが、両親のミスから15歳の誕生日につむ(糸づくりの道具)に触れると100年眠りにつく呪いを受けてしまったり、肝心の15歳の誕生日には忘れて出かけてしまったりする。過保護なわりに親の不注意から騒動が起こされているようだが、養育を完璧にコントロールするなど不可能であるし、それでは子の自主性も育まれない。何も悩みや苦しみを経験しない子は、単なるわがまま娘にしかならないだろう。
誕生日を迎えたお姫様自身も、自分の足でお城に隠されたつむを見つけ出したりと、心の動きは自然と自立性の獲得に動いている。つむは庶民の扱う道具であって、お姫様が触れるものではないが、一般的な経験を積み普遍的な女性性を養うことをお姫様は望んでいる。
お姫様がつむに触れると城ごと眠りにつき孤立するが、同時に守られた状態でもある。思春期に悩みを抱えながら自立へと至っていく心の働きと、親の保護は対立し合うものであり、干渉できない状況がかえって良い環境を作っている。
キスをする王子様はたまたま呪いの解ける100年目に城に近づいただけであり、何ら優れた素質は見られないが、それでもこのカップルが幸せを得られるのは、ひとえに彼女自身の成熟を強調するものだ。