テーマ考察② 世界の終りとハードボイルドワンダーランド(2)

3章でも引き続き主人公の受動的な姿勢が描かれ続ける。太った娘から雨合羽とゴーグルを渡されると、「文句を言うのも面倒だったので」などと言い訳しながら従う。暗闇に案内されると、「あまり気が進まなかったが、今更そんなことを言うわけにはいかない」と従順に応じる。暗闇の中に入ると「前もって注意してくれるべきだったのだと私はいくぶん腹立たしく思った」と不満を述べるが、誰に文句を言うわけでもない。
ここまで来て初めて「そのまま仕事を断って、家に帰ってしまうべきかもしれなかった」とためらう様子を見せるものの、やはり「あきらめてそのまま」進む。しかもこれを「職業上のプライドのせい」と考えて納得しようとするなど、サラリーマン的使命感とでも呼べるような対応に終始し、個人の意見などに優先権は持たせていない。

「どうして自然の音が小さくなるんですか?」と私は質問した。
「正確には小さくするってんじゃなくて」と男は答えた。「音を抜くわけです」
私は少し迷ったが、それ以上の質問は控えることにした。私は他人に対してあれこれと質問を浴びせかけられる立場にはないのだ。(3章)
「それで迎えに来たです」と男は繰りかえした。「やみくろはいかんですから」
「それはどうも御親切に」と私は言った。(3章)

博士に会い音抜きの現場を目の当たりにするが、またも疑問を抑えて余計な詮索はしない。博士が唐突に「やみくろ」の話をしても礼を崩さぬ対応はもはや喜劇的な色調さえ帯びている。この後に滝をくぐる場面でも調子を合わせようとする。

「信念のことはよくわかりませんが」と私は言った。「ひとつだけはっきりさせておきたいことがあります。事務的なことです」「保証できますか?」(3章)

研究室で骨から記憶を取り出すという研究内容を聞かされても、主人公の関心はきちんと就業規則に沿った依頼であるかどうか、会社からの正式な書類を確認できるかに向けられている。禁止されているはずのシャフリングの依頼についても、見せられた書類の通り引き受けることになる。

主人公は何かと自由意志において選択をしているように考えを寄せようとはしているが、その実なにも自分で選び取れてはいない。組織に属している以上、仕事の遂行が優先され、個人的な判断は求められない。集団社会の一辺として非個性的な活動を余儀なくされている現代人にとって、個人の主観によって決断されうる部分はごく僅かにすぎない。

「悪いとは思うけれど、君と少しのあいだ別れなくちゃいけないみたいだ」と僕は影のそばに寄って言った。「こんなつもりはなかったんだけれど、なりゆき上仕方なかったんだ。少しのあいだ我慢してここに一人でいてくれないか?」(6章)

6章では切り離された影に、主人公は「なりゆき上仕方ない」ものだったと無責任な説明をしている。これに対して影が不満を垂れるが、主人公は「落ちついたところで君をひきとりに来る」などと甘い見通しでなだめる。会話が済むと影の「肩に手を置き」、門番のところに行くが、今度は門番が主人公の背中に手を置く。

僕は肯いて影の肩に手を置き、それから門番のところに行った。
僕がそばによると門番は手についた白い土をシャツの裾で拭いおとし、大きな手を僕の背中においた。それが親密さの表現なのかあるいはその大きな力強い手を僕に認識させるためなのか、僕にはどちらとも決めかねた。(6章)

門番に手を置かれた主人公はそれが圧力の表れではないかと疑っている。しかし直前には自分も影の肩に手を置き、門番と全く同じ行為をしていたのだ。表向きでは親密さを装いながら、実のところ自分でも不誠実で信頼がおけない振る舞いをしていたことを、主人公自身が証明しているのだ。
主人公の方が「本体」(6章)と呼ばれていることから、影の立場は主人公よりも低いことになる。社会が立場の低い者に制約を強いる構図と同じように、個人の内心でも疑問や違和感が意識下へと抑え込まれていく過程が描かれている。

「僕は自分が永久に影を失うことになるなんて思わなかったんです」(8章)
「彼ら(※獣)を殺すのは街が押し付けた自我の重みなんだ。そんな完全さにいったいどんな意味がある?弱い無力なものに何もかもを押しつけて保たれるような完全さにさ?」
(32章)

社会に参入し、組織の中で一機能として扱われていくにつれ、自らの意志や本能的な側面を働かせる機会は次第に失われていく。主人公は博士の研究や組織の思惑などは自分と無関係のものとしてまるで関心を寄せようとはしていないが、知らず知らずのうちに大きな騒動に巻き込まれていくことになる。しかし実際には主人公も社会の成員である以上、科学の進歩やら、企業の成長やら、人類の進化などにおのずと関与しており、それに伴う弊害や責任を負わねばならない立場にある。彼はただ歯車として動かされただけではなく、歯車として社会を回した側でもある。主人公が巻き込まれていく騒動とは、決して偶然に降りかかったものでもなければ、本人に無関係なものでもない。したがって巨大組織などの統治者側を一方的な悪としてとらえるのは誤りであるといえる。獣の群れのように管理されるままの人々が増えていけばいくほど、それに比例して獣を統制・指導する側の組織も強固な体制を築かねばならない。両者の勢力は関連し合って互いを存続させている。主人公に降りかかる諸問題というのも、個人的問題にとどまらない社会的な問題として投げかけられている。

「僕には関係ないな」と私は言った。「僕のような末端は蟻のように働くだけだ。その他には何も考えない」(13章)
技術が向上し手際よく古い夢の数をこなすことができるようになっただけ、その作業をつづけることの空虚さがかえって際立っていくだけのことだった。人は進歩のためならそれなりの努力を続けることができる。しかし僕はどこにも進むことはできないのだ。(18章)

「私」は自分に与えられた仕事をこなすことで責務を果たしているつもりでいるが、社会や組織の変動が自分に及ぼす影響の重大さには全く目が向いていない。「僕」も夢を読むことで心をかい出していくが、その意味するところは何も知らない。彼らの行う仕事は、自我をかいだす=心を無くしていくまでの過程として同様の意味を持っている。

しかしもちろん、私には好きな計算方式を選択する権利はない。私は洗いだしとシャフリングというふたつの方式についての免許を与えられていて、それを勝手に改変することは厳しく禁じられているのだ。それが気に入らなければ、計算士を廃業するしかない。
計算士ほど個人として自由に能力を発揮できる職業は他にないし、収入も良い(11章)
彼らは私を二週間冷凍し、そのあいだに私の脳波を隅から隅まで調べあげ、そこから私の意識の核ともいうべきものを抽出してそれを私のシャフリングのためのパス・ドラマとして定め、そしてそれを今度は逆に私の脳の中にインプットした(11章)

組織の支配下に置かれ、就業の主導権や決定権まで奪われなければ計算士として働くことはできない。主人公は計算士が「自由に能力を発揮できる」などと主張しているが、シャフリングのために冷凍され脳を弄られ、ジャンクションと電池を埋め込まれ、自分も知らない無意識内容を調べ上げられ利用されているのだ。

シャフリング作業には誇りも能力も何もない。私は利用されているにすぎない。(11章)
それから私は計算士を引退したあとの生活について考えた。私は十分な金を貯め、それと年金とをあわせてのんびりと暮らし、ギリシャ語とチェロを習うのだ。(13章)

「利用されているにすぎない」と感じるシャフリングを終えた後には、年金で暮らす将来の生活を思い描いている。自由を明け渡した直接的な補償として金銭が対応しているためだ。計算士は架空の職業だが、こうした動機や目的とは実社会での在り方とも関わりないわけではない。

ひとことで頭蓋骨といっても、ほんとうにいろんな音色があるものだと私は思った。ウィスキーのグラスを叩くようなものがあれば、巨大な植木鉢を叩くようなものもあった。それぞれにはかつて肉と皮がついて、脳味噌が――量の差こそあれ――つまっていて、食事のこととか性欲のこととか、そんなことに思いを巡らしていたのだ。でも結局は何もかもが消えて、様々な種類の音だけになってしまった。グラスとか植木鉢とか弁当箱とか鉛菅とかやかんとか、そんな種類の音だ。(5章)

研究室では博士が動物の頭骨をたたいて音を鳴らしている。するとその音を聞いた主人公は、グラスや植木鉢などといった「人工物」が出す音と同列に扱っている。こうした連想は人間が管理・指導され、ゆくゆくは大衆が「人工物」同然のように扱われる存在と化すであろう未来を先取りしている。とくに主人公は3章で自分が「ペーパークリップに生まれ変わる」などと奇妙な想像をしていただけあって、その素質も十分というわけだ。

老人はしばらく私を観察していた。それからペーパー・クリップを一本手にとってまっすぐに伸ばし、それで爪の甘皮をつついた。私はこの次なにかに生まれかわることができるとしても、ペーパー・クリップにだけはなりたくないと思った。(3章)

ペーパークリップは紙を束ねる、まとめるなどの機能をもつため、近代社会で人々が統制され意識を働かせる機会を奪われていくさまを示唆している。主人公が自分をペーパークリップとして考えていたのも、心を使わずに生きている主人公自身が、道具も同然の生き方をしているためだ。現に彼は音のない状況に置かれてもきちんと仕事をしに来れているのだから、音や声を奪われても環境の変化に合わせて自分を変形させていけることを自ら証明している。

「私は思うに、あなたには何かがある。あるいは、何かが欠けておる」
「我々科学者はそういう状況を進化の過程と呼ぶです」
「誰にも進化を選り好みすることはできん。それは洪水とか雪崩とか地震とかに類することです」(5章)

博士は主人公が進化の過程に置かれた特別な存在にあたると推薦しているが、主人公が非自律的な生き物であり、やがては音(=心)まで奪われるだろう悲しい運命にあることを告げているのだ。
しかし現実では獣のように管理されて適応をはかりながらも、主人公は頭の中に作ったもう一つの世界の方に心を向けて充足を得ている。この秘訣を探り、娘に継がせようとしたのが博士の狙いとなっている。

「あの子は正しい種類の男と早い機会に交わるべきなのです」
「どうやら私は思うに、あなたはあの娘のことを十全に理解しておられるようだ。あなたにならあの子は安心しておあずけできそうですな」(5章)

この博士は世間との関わりを断ち、地下の穴倉のような住処で一人で理論をこねくり回し、「協調性なんぞはどうだってよろしい」(3章)との発言にも示されるように人嫌いで骨の研究などに興味を注いでいる。やみくろには敵対意識を持ってはいるが、それでいて一人で地下を隅々まで徘徊しているなど、生態そのものは人間よりもやみくろに近い。博士の後継者たる孫娘もまた同様で、音抜きされたままでもスーパーマーケットと事務所を往復しながら生活しているといい、学校にも行かず他者との繋がりを持たない。そんな偏向的な性格をしている博士から進化の先駆けにあたる人物として選出された主人公も、やはり地下世界の生物に近い精神構造を備えているのだ。

まるでビニール・ラップにくるまれて冷蔵庫にほうりこまれそのままドアを閉められてしまった魚のような冷ややかな無力感が私を襲った。(3章)
進化途上にある魚のような気分で暗闇の中を上流へと向った。(3章)
彼らの神は魚なの。巨大な目の無い魚
「彼らはあの魚がこの暗黒の地をつかさどっていると信じているの。この地の生態系や様々なもののありようや理念や価値体系」(21章)

主人公は初めて地下に降りた時に、自分が魚になったかのような気分を覚えている。人間も魚から進化してきたわけだが、作中における魚とは、人間にとって原初的な段階や退行した姿を意味するものとなる。そして地下に住むやみくろも「魚のような匂い」(19章)がしていたり、「鰓で地面を叩くような音」(21章)を立てたり、さらにやみくろの神も魚であるなど、魚との関連性が随所に見てとれる。これは暗い地下住人の生態系が退行的なもので、意識の発達がまだ未分化な赤子や動物の水準にとどまったままの生物、強い無意識性に包まれた存在であることを示唆している。やみくろの巣を通り抜ける場面には、「時間がそのおぞましい太古の記憶に向って逆戻りしているような気がした」(29章)という描写もある。

「その傷がつまりは夢読みのしるしってわけだな。しかしあんたはそのしるしをつけているあいだは光に気をつけねばならん。いいかい、その目で日の光を見ることはできないんだ。(4章)

やみくろは「光」の無い世界で「目」の無い魚を崇めているが、夢読みとなった主人公も、まず目を刺され、光を奪われる。光はあらゆる時代に書かれたあらゆる物語で、「意識」を象徴する概念として用いられてきた。漫画などでも電球のシンボルで閃きが表されたりする。これは無意識の暗い領域に「光」が差しこむ様子が、意識の拡大をイメージするものとして広く人類に共有されてきたためだ。作中でもこの光=意識という対応表現が重要となっている。たとえば31章では「ライトスタンドの傘のゴムを外してぐるぐる回す」という奇妙な所作をするが、これは意識をフル回転させて考え事をしているというわけだ。ライターをいじったり(13章)、ろうそくの火を見つめる(32章)などの行為なども同様に意識を働かせた表現となっている。暗い無意識世界からの脱出口である「南のたまり」は「巨大な瞳のよう」(40章)だと描写されている。

「じっと見ていると頭骨が光と熱を発しはじめるから、あなたはその光を指先で静かにさぐっていけばいいの。そうすればあなたは古い夢を読みとることができるはずよ」
(6章 図書館の女の子)
「夢読みに読まれた自我は大気に吸いこまれ、どこかに消えていく。それがつまり〈古い夢〉だ」(32章 影)

光(意識)を見るための「目」を奪われた夢読みは、頭骨が秘める光を大気に放つ仕事をこなすことで自分を街に同化させてゆく。光の解放は意識の働きを鎮める行為に当たり、現実世界では意識を働かようとせず暗い無意識が生んだ内面世界に没入している「私」自身の在り方が反映されたものとなる。

知恵の実を食べて楽園を追い出された神話や、火を盗んで罰せられたプロメテウスの話にあるように、人間は意識を発達させたがゆえに悩みや苦しみという罰とも向き合わなければならなくなった。しかし意識が分化していない赤子の状態や、動物の段階にまで退化すれば苦しみを意識しないで済む。
したがって現実での葛藤や苦悩から逃れて、暗い無意識内の空想に充足を見出そうとする生とは、意識の働きの放棄と同義であり、生物にとって退行的な行為とみなされる。そして現実世界では心を働かせず機械的に立ち回り、暗い無意識の中で充足を得ようとする主人公が送っている生というのが、まさしく光の無い地下に住むやみくろや魚の生態同然となっているのだ。

透明な魚のように暮れなずむ街路をひっそりと通り抜け、舗道の丸石や家々の石壁や川沿いの道に並んだ石垣をその響きでひたしていった。大気の中にふくまれた目に見えぬ時の断層をすりぬけるように、その音は静かに街の隅々にまで響きわたっていった。(2章)

「獣」の行動を規定する角笛の音色も、「魚のように」街に響き渡ると記されている。獣とは群衆化された主人公の姿を表しているので、同様に意識的な働きを欠いた退行的な生物であることが示されている。

「やみくろは地下に生きるものだ。都市の残りものを食べ、汚水を飲んで生きている。人間とまじわることは殆んどない」(13章)
彼らは腐肉や腐ったゴミしか食べないし、腐った水しか飲まないの」(21章)
「海の近くで生まれたんだ」と私は言った。
海から打ち上げられたものはどんなものでも不思議に浄化されているんだ。使いようのないがらくたばかりだけど、みんな清潔なんだ。汚くて触ることのできないようなものは何ひとつとしてない。海というのは特殊なものなんだ。僕の生活というのはいつもそんな具合だった。がらくたを集めて自分なりに清潔して別の場所に放りだす――しかし使いみちはない。そこで朽ち果てるだけだ」(37章)

物語終盤で主人公は海を通して浄化されたがらくたを集めていたという話をする。「海」とは「主人公の無意識」を表すモチーフで、こちらも作品理解に必須となっている。世界の終りの図書館(4章)や森(14章)が「海の底」に例えられたり、組織の人間は意識の核を「カオスの海」(11章)と呼んでいる。古い夢は「潮が引くように」(18章)ぬくもりを失う。地下世界では、影が映画館でダムの水流に呑み込まれると「海」へと流される(23章)重要な記憶が思い出されている(4つ目の記事で解説予定)。ヒル(23章)や、やみくろ(29章)も主人公を無意識に引きずり込もうとするものとして、海に関連づけられた描写がされている。

主人公が語る「海=無意識」を通したがらくたを集める行為とは、現実からの借り物を自分の無意識内で空想に適した状態へと作り変えて、映画の人物になりきるなどしていた自らの営みを言い表したものとなる。この海岸のエピソードは主人公が自らの空想癖の原点を掘り返したものであり、その習性がやがては無意識の中に街を作り上げるに至った。そして無意識という暗闇を通したがらくたから養分を得るその生のあり方とは、地下の世界で「残りもの」を食べて暮らすやみくろの生態そのものであったと振り返っているのだ。
街が現実の残りものから作り上げられていることは、22章における食事の描写からも分かる。

スープもミルクも妙にざらざらとして舌ざわりが悪く、味もやわらかみに欠けたが、何度も飲んでいるうちに口が少しずつ慣れ、それなりのうまさを感じることができるようになった。
「それはあなたがだんだんこの街に慣れてきているということなのよ」と彼女は言った。「この街の食べ物は他のところのものとは少し違っているの。私たちはほんの少しの種類の材料でいろんなものを作っているのよ。肉のように見えるものは肉じゃない、卵のように見えるものは卵じゃないし、コーヒーのように見えるものはコーヒーじゃないの。ぜんぶそれに似せて作ってあるだけ」(22章)

物語の終盤で心を取り戻し、頭骨を光らせたあかつきには、この海という無意識性に光(意識)が差し込む光景が描かれることとなる。またその光を指先で辿っているのは自分で理解していなかった無意識内容の一部分を自分で操れるまでに把握した、すなわち「意識化」できたという表現となっている。

無数の頭骨の中に眠っていた古い光が今覚醒しているのだ。頭骨の列はまるで光を細かく割ってちりばめた朝の海のように、そこに音もなく輝いていた。(36章)
そのせいか光は頭骨の表面で光っているというよりは、頭骨の上にぽっかりと浮かびあがっているように見えた。我々はソファーの上に並んで、長いあいだ無言でその光の小さな海を見つめていた。(37章)
タイトルとURLをコピーしました