地下世界とは何か② 世界の終りとハードボイルドワンダーランド(4)

博士は主人公の無意識内容をトレースして、編集し、映像化した第三回路を主人公の脳内に埋め込んでいた。地下世界ではその第三回路の映像が展開しているわけだが、いったいなぜあのような暗黒世界が表現されたのか。
これには「世界の終り」の元ネタとなった中編「街と、その不確かな壁」(1980年作品の方)と比較して考えると理解しやすい。こちらは単行本未収録の作品だが、検索すると国会図書館からコピーを取り寄せる方法が見つかるので、興味ある方は参照してほしい。二つの作品は共通した設定を持つ別作品となっているが、「世界の終り」を読むにあたっての比較材料にはなる。

文字盤の少し下あたりに見える小窓から推測すると、塔の内部はどうやら空洞になっており、梯子か何かで上にのぼることができるようだったが、そこに入る入口らしきものはどこにも見あたらなかった。(4章)
内部は空洞になってはしごでもついているのだろうが、入口はどこにもなかった。おそらくそれは地下にでもあるのだろう。その塔の高さは異常なほどで、文字盤を見るためには、川の向こう岸まで渡らねばならなかった。(「街と、その不確かな壁」)

「世界の終り」では時計塔の内部が「空洞」のようであるとしか描かれていないが、「街と、その不確かな壁」では塔の出入り口についての推察があり、地下の存在が示唆されている。そして物語終盤で主人公が古い夢を光らせた後には、実際にその地下へと降りていく展開になるのだが、そこでは陰惨たる暗黒の世界を目の当たりにすることになる。
地下とは声を無くし、光を奪われ、夢を失った世界で、頭(=意識)を失った兵隊が徘徊している。「頭部」は人間にとって知性や思考をつかさどる部位であるため、頭の無い兵隊というのは意識を失い、無意識的な生を送る獣や下等生物に近いあり方を意味するものとなる。この「頭部=意識」の象徴表現が作品を理解するうえで重要となる。

この中編では、自殺した彼女の話をもとに主人公が空想の街を築き上げ、そこの住人となって死んだ彼女と暮らしている。このような空想を思い描いて充足を得ることは、無論現実からの逃避であり、意識の発達を放棄した姿にあたり、生物にとっての退行を意味する。空想の街とはケーキのように綺麗にデコレートされた外観をしてはいても、その土台や基盤となった精神構造は幼稚で忌まわしいものであり、未熟な意識性の上に成り立っているという真実を地下で思い知らされるのだ。

「我々はあんた方の思考システムを徹底的にトレースしました」
「くわしく言うと三種類の平面座標とホログラフによってこのシミュレーションは構成されておるです」
「無意味なものは排除され、意味のあるものが基本的パターンとして刻みこまれていく。それを何度も何度も繰りかえす。プラスティック・ペーパーをかさねていくみたいにです」(25章)

長編の「世界の終り」では表現方法に変更が加えられている。「世界の終り」では主人公が直接地下にもぐることは無い。代わりに「ハードボイルド」側の主人公の意識を博士がトレースしてマッピングすることで、彼の意識構造をホログラフとして作り上げた。そうして他者の手によって再現されたのは、美しい街ではなく醜い精神的地盤の方であったということではないか。さらに博士はその無意識内容を映像化し、編集を加え、主人公はその映像を見させられることによって、自分の無意識が生んだ世界というものを体験させられているという形をとったと思われる。

湖を隔てた対岸の道を終りのない兵隊の列が、僕と反対方向に行進しつづけているのが見えた。彼らの肩の上には首がなかった。(街と、その不確かな壁)
まるで首を切りとられた人々の群がぽっかりと開いた喉笛を鳴らしながら何かを訴えかけているようだ。(23章 ハードボイルド)
たまりから蒸気のように湧きあがってくる巨大な息づかいがあたりを支配していた。それは地の底から響きわたる無数の死者の苦悶の呻きのようでもあった。(12章 世界の終り)

「街と、その不確かな壁」では頭(=意識)を失った兵隊が徘徊していたが、「ハードボイルド」の地下世界でも同様に「首を切りとられた」=意識の発達を止められた者の声が鳴り響いている。そしてこの音は「世界の終り」の地下から聞こえてくる音とも共通性を持っている。ほかにも、両方の世界の主人公が共通して地下を「地獄」(21、36章)と呼んだりもする。
二作品にまたがる三つの世界で共通している表現から、地下で響く声とはこのように捉えてよいと思われる。無意識に築かれた世界に没頭するために犠牲にされた意識、感情、心といったものが声を上げようとしているのだと。

まったく上層部の人間が何を考えているのか私には見当もつかない。穴を掘ったら次はそれを埋めろと言い、埋めたら今度はまたそれを掘れと言う。(3章)
彼らは穴を掘ることを目的として穴を掘っているんだ」「意味もないし、どこにも辿りつかない。どこかに辿りつきたいと思っているわけではないからね」(30章 大佐)
「今ある計算士のシステムを創りあげたのは殆ど彼ひとりの功績と言っても言いすぎじゃないくらいなんだ。あんたたちは要するに、彼の創出したノウハウをつめこまれた働き蜂のようなものなのさ」(13章 小男)
穴はまるでコンパスを使って描いたような綺麗な円形で、直径は約一メートルというところだった。彼女がライトをまわすと、それと同じような大きさの穴が地面に見渡す限り並んでいることがわかった。その恰好は巨大な蜂の巣を思わせた。(23章)

主人公や大佐は無為な仕事を「穴掘り」と称していた。また小男は仕事をする主人公たちのことを「働き蜂」に例えている。そして穴だらけとなった地下世界は、主人公の目に「蜂の巣」のように映っている。仕事は穴掘りであり、仕事をする者は蜂であり、掘られた穴とは蜂の巣。主人公が無意識世界に没頭し、現実で心を用いない生(仕事)を送り続けていた結果が、地下では穴だらけとなった世界として表現されている。蜂とは統制が取れて秩序正しい組織を象徴するものであり、現代社会で働く人々を揶揄している。

この穴にはやみくろ達が儀式として人間の頭部を放り込んでいたというが、穴の中でうごめくヒルも主人公の「首筋」に張り付くことで、頭を切り落とそうとしてくる。「世界の終り」の街でも同様に、自我を吸いとった獣が頭を切り落とされていた。両方の世界で共通して頭を奪おうとしてくるのは、意識の働きを止めさせ、無意識に作られた幻想の世界への埋没を誘っているためだ。無意識に逃げ込んだ生を送っている主人公の精神が構築した世界が地下であり、空想や願望から生まれた街とは意識の働きを殺すことで成立している。

街でも、やみくろの儀式でも、同様に穴が掘られ頭を捧げるという類似行為が行われているのは、光の無い無意識に没頭した主人公の生態が、地下の暗闇の中で生きているやみくろの生態に酷似しているという危機的な状況を示している。

ところで、この地下世界では主人公の意志や心境の変化次第で、進行のテンポや展開が切り替わっている。たとえば主人公が新聞を読みたい(社会一般の見識とかかわりたい)と希求した途端、祭壇が見えてくる。記憶を取り戻したいと思うとロープが見つかったり、いつものように家ではなくバーで酒を飲みたい(外の世界と接点を持ちたい)と思うと水音が消える(23章)。娘から博士に直接会う必要性があったと説かれて主人公も納得した途端に出口に到達する(29章)。
これは第三回路の映像を一方的に受け取っているのではなく、第一回路が介入できる余地も備わっているということではないか。地下世界とは博士が映像化した第三回路に、第一回路の働きが作用することで体験される形而上的な領域であると捉えられる。

「もっと流動的で総体的なものだ。つまりここは決して固定して完結した世界ではないんだ。動きながら完結している世界なんだ。だからもし俺が脱出口を望むなら、脱出口はあるんだよ」
「僕もそのことに昨日気づいたばかりだ。ここは可能性の世界世界だってね」(38章)

影も意識の持ち方次第で街は変化し脱出口もできる世界であると説明している。

「性欲というものは正しいエネルギーです。これは実にはっきりとしておるです」(5章)
しかし性欲がしかるべき水路をたどるとそこに性交という滝が生じ、その結果としてある種の学術性をたたえた滝つぼへと辿りつくのだ。(7章)

主人公と娘は地理的に水路にあたる通路を進んでいく。フロイトは水路や川を「性欲(=生命エネルギー)」の通り道として用いていたが、作中でもそれを踏襲していると捉えていいだろう。性欲=エネルギー=水路の構図は、上に置いた二つの引用によっても、最小限の説明だが分かる。また「世界の終り」の影は「この川には悪意というものがまるで感じられない」(38章)と語っている。生命エネルギーは本来純粋なものであって建設的に使うこともできるのだ。

水はやがて滝壺に落下する水流のような音に変り、そのころにはもうふたをかぶせられたようなごぼごぼというくぐもった音に変化していた。(24章)

7章で主人公が性欲は「滝つぼ」に辿りつくと考えている場面があったが、地下世界で噴出す水も「滝壺」に落下するような音に聞こえている。こうした一致からも、水とは性欲=生命エネルギーの表出と解釈することができる。

「水は毎日出るってわけじゃなくて、一カ月に二回か三回っていうところなの。まさかよりによって今日がその日だったなんてね」(23章 太った娘)
「この前女の子と寝たのはいつ?」と彼女が訊いた。
私は記憶の箱のふたを開けて、その中をしばらくもそもそとまさぐってみた。「二週間前だな、たしか」と私は言った。(9章)

娘は水が出る頻度を「一カ月に二回か三回」程度と把握していたらしく、この日に水が出たことは予想外の出来事であったといえる。この回数とは何かというと、主人公の性交の頻度を意味しているのではないか。胃拡張の女との会話でも、前に女と寝たのが「二週間前」だったと話しているので回数的には一致する。

そんなことをぼんやりと考えながら梯子を下りていくうちに、雨合羽の下で私のペニスが勃起しはじめるのが感じられた。やれやれ、と私は思った、どうして選りに選ってこんなところで勃起が始まるんだろう?(21章)
こんなにたくさんの数の人間がどうして真夜中に車で街を走りまわる必要があるのか私には理解できなかった。なぜみんな六時には仕事を終えて家に帰り、十時前にベッドにもぐりこんで電気を消して寝てしまわないのだ?(19章)

事務所から地下へ通じる梯子を降りている最中に、主人公はスカイラインに乗った女を思い出して自分の欲動が動き始めるのを自覚していた。水が出た原因は、このときに女を想起して主人公の欲動が呼び起こされたことにあるようだ。主人公は太った娘に連れ出されて外に出た際、夜中に街を走りまわっている車を目にして、夜は寝てしまうのが当然だと理解を示さずにいた。しかし、その一方でスカイラインに乗って夜中に遊びまわるカップルを見て実は興味を覚えてもいたのだ。

地下に降りる際にスカイラインの女のことを考え続けていたのは、これまで自分が締め出してきたような未知の可能性に新たな魅力を覚え始めていたためだ。その裏付けは、地上に戻った後の主人公の行動に見て取れる。胃拡張の女と食事の約束を取り付ける時間というのがちょうど「6時」すぎだったり、「最新車」で迎えに行くなど、彼らの行動を追体験していくことになるからだ。

「心とはそういうものなんだ。決して均等なものじゃない。川の流れと同じことさ。その地形によって流れのかたちを変える」(22章)

この水路は、両方の世界で「ボーリングレーンのようにまっすぐ」(23章)、「まっすぐに水が流れている人工的な水路」(26章)と直線であることが強調されているが、「急に南に折れまがり」(12章)と流れを変えて南の壁に辿り着いている。この流れを変えているという部分も重要かと思われる。中編の「街とその不確かな壁」でも「急に南に折れ曲がり」「急に向きを左に変えて」などと、川の流れが急に変わっている様子が二度に渡って言及されているからだ。この表現の意味は言葉の通り、主人公の生命エネルギーの流れが捻じ曲げられているということだろう。上に引いた22章での台詞と合わせて考えても、川の流れが変わっている原因とは主人公の心のあり方にあると見られる。

彼女はライトを足もとに向け、地面に掘られた深さ十センチ、幅一メートルほどの溝のようなものを私に示した。その溝は台地の上りぐちから一直線に闇の奥へと向っていた。「この道をずっと辿っていくと、昔の祭壇に行きつくはずよ」
我々はその溝のようなまっすぐな道を前に進んだ。道はやがて下り坂になり、それにつれて両脇の壁はどんどん高くなっていった。(21章)

水路にあたる通路は下り坂になっているので、二人は上流から下流へと進行していることになる。これを街の地理に対応させると、東門のあたりから西への進路を辿っていることとなる。ちなみに、門番が発電所への道筋を説明する際にも、東側が「上流」であると話している(24章)。そうなると水路に辿りつく前に登っている「山」というのは「東の尾根」の南方面にあたるのだろうか。これだと山の部分はまだ街の外ということになってしまうが、山を登ると「広々とした台地」、「台地はかなり広いらしく、テーブルのようなつるりとした平面がどこまでもつづいていた」という景色が見えるので台地が街の部分にあたるのかもしれない。

人は何かを達成しようとするときにはごく自然に三つのポイントを把握するものである。自分がこれまでにどれだけのことをなしとげたか? 今自分がどのような位置に立っているか? これから先どれだけのことをすればいいか? ということだ。この三つのポイントが奪い去られてしまえば、あとには恐怖と自己不信と疲労感しか残らない。私が現在置かれている立場がまさにそれだった。(21章)

主人公はこの岩山を大変な苦労をしながら登っていくのだが、暗闇における山登りの難しさを、現実で見通しも基準もなくなったときの不安さや、手探りで道を切り開いていかねばならない困難な状況に置き換えて考えている。現実社会で定められた規律に自分がどれほど頼っていたのかを痛感させられているわけだが、主人公が現実世界で先行きの見えない困難に直面したために空想の世界に逃げ込んだとするなら、水路の前に存在する山の意味とは生命エネルギーが(光と目を失った)街へと流れ込んだ理由を示すものではないか。

「いいえ、逆よ。山はそもそもの最初から汚れているの。すべての汚れはここに集約されているのよ。この世界はいわば、地殻に封じこめられたパンドラの匣なのよ」(21章)

娘は山が汚れの集約された場所であると説明している。主人公の無意識内にある街が、現実でのあきらめや逃避から生み出されたとするなら、たしかに山は汚れの始まりと呼ぶにふさわしい地点だと言える。

「世界のなりたちかたを変えることはできんのだよ。川の流れを逆にすることができんようにね」(16章 大佐)
水は逆に 流れたりはしないものだ(21章 太った娘の歌)
「それはまるで──私にとっての世界の終りのようなものだったのよ。暗くてつらくてさびしくてたまらなく誰かに抱きしめてほしいときに、まわりに誰も自分を抱きしめてくれる人がいないというのがどういうことなのか、あなたにはわかる?」
「わかると思う」と私は言った。(21章)

大佐は「川の流れを逆にすることはできない」と忠告していたが、主人公と娘はこの水路、エネルギーの流れに沿っていきながら、主人公の心が生んだ世界のなりたちを探っていく。水路を歩みながら娘は家族を失って孤独になった話をしているが、この話が終わった直後に水を押し上げる空気音が聞こえてくる。こうした対応関係から、水の放出とは娘の話が主人公に何らかの作用を引き起こしたためであると考えられる。主人公が娘の話に共通点を見出し、共感したことで、自分自身の記憶も呼び起こされた、そして他者との結びつきを求めたことで抑え込まれていたエネルギー面というものも動き始めたのではないか。

「つまらない世界だわ。あなたの意識の中で暮す方がずっと楽しそう」(29章)

娘は大切な人を失った寂しさを「世界の終りのようなものだった」と語っているが、この記憶こそ娘が現実世界に心を向けられずに「意識の中」で暮らしたいと考えるようになった発端の出来事であり、そしてこの地下世界に主人公を連れてきた理由でもあるだろう。娘の話に「分かると思う」と同意している主人公にとっても、「世界の終り」という街を作り上げた理由が大切な人の喪失にあるのだが、これはまた後の記事で解説する。

耳ざわりな空気音だけが暗黒の闇の中に鳴り響いていた。それはまるで獲物がもっとそばに近づくのを力をたくわえながらじっと待ち受けている獣のひそやかな歓喜の吐息のようにも聞こえたし、無数の地底の虫が何かの予感に駆られてその不気味な体を手風琴のように伸縮させているみたいにも聞こえた。いずれにせよ、それは私がこれまでに耳にしたこともないほどの激しい悪意に充ちたおぞましい音だった。(23章)

地下世界で鳴り響く音を聞いた主人公は、その音が獣の吐息のようにも、虫が手風琴のように動いているようにも聞こえている。「獣の吐息」というのは頭を奪われ犠牲として捧げられた意識の叫び声であり、「手風琴」はこの後「世界の終り」側で心を取り戻すキーアイテムとなっている。そして「虫」についても次回で解説するが肯定的な意味を持っている。

主人公は地下で自分の意識構造に立ち入っているわけだが、そこでいわば自分自身が鳴らしている音、そして自分が耳を傾けなければならないはずの音が、「悪意に充ちたおぞましい音」などと否定的なものに聞こえている。しかしこれが無意識に対する自然な反応というもので、そもそも自分で認めたくはない、認めるのが辛い、恥ずかしい、などといった否定したい内容が意識の底に追いやられているわけだから、容易に自我に統合できるものではないのだ。音が邪悪に聞こえているのは、それだけ分裂した心を統合することの困難さを表しているのと同時に、主人公が意識の営みを放棄したことの罪深さを物語っている。

そのときの私にはわからなかったのだけれど、私の両肘のこわばりは耳から派生していたものなのだと思う。私はそのおぞましい空気音に意識を傾けまいとしてごく自然に耳の筋肉を緊張させ、それがこわばりとなって肩から肘へとつづいていたのだ。そのことに気がついたのは私の体が彼女の肩に激突し、彼女を地面に押し倒し、その上を乗り越えるようにして前方に転がったときだった。彼女が大声で叫んだ警告を私の耳は聴きとることができなかったのだ。(23章)

主人公は音を恐れ、耳を閉ざしてしまったために、娘に衝突してヒル穴に落ちてしまう。ここでは自分の無意識内容との対峙を恐れ、音から逃れようとして耳を塞いだばかりに、無意識という穴に飲み込まれかけてヒルに頭部(意識)を切り落とされるという危機的展開に陥っている。続けて主人公は、音を調整していたことについて「まるで音抜きみたいじゃないか」「進化に近づいているのかもしれない」などとのんきなことを言っているが、実際には意識状況が退行に傾いたために罰を受けているのだ。
水路を歩いてる途中には暗闇で眠りこけてしまう場面もあった。無意識は意識を働かせる力や思考する力を奪い取って、呑み込み、一体的な関係を築き上げようとする。現実から逃れて空想的な欲求や願望に従わせようとする無意識との戦いが地下で描かれている。

たしかスタンダールが暗闇の中で抱きあうことについて何かを書いていたはずだ、と私は思った。本のタイトルは忘れてしまった。私はそれを思いだそうとしたが、どうしても思いだせなかった。(21章)
それはずっと昔にスタンダールの『パルムの僧院』を読んだときに私が感じたことでもあった。(23章)

こうして自分が生んだ無意識内容に翻弄されつつも、失っていた古い記憶が次第に思い出されていく。暗闇という無意識を憎しみ始めたり、3年前に読むのをやめたという新聞を読みたくなるなど、光ある外の世界へと目が開かれてもいく。

次にやってきたのは紛れもない水音だった。我々が通り抜けてきた無数の穴から上にむけて水が一斉に吹きあげる音だった。それも生半可な量の水ではない。私は小学生の頃にニュース映画で見たダムの開通式の場面を思いだした。(23章)

再び水音に耳を傾けると、少年時代に映画館でダムの映像を見た記憶が蘇ってくる。この小説が出版された1985年頃にはちょうどダム問題がさかんに取り沙汰されていた。主人公がニュース映画を見ていたのは9、10歳の頃なので、映画館の場面とは1960年ごろにあたる。そして1960年頃とはダム建設の成果が前面に報じられ、背後にある問題はまだ広く意識されてはいない時期だった。
ニュースではダム建設が祝福される事業として報じられているが、主人公の影、すなわち自分の半面はダム事業について何か意見を訴えたがっている。しかし映画館という場所においては、観衆は情報を一方的に受け取るしかない受動的な立場にある。そして隣にいた兄やほかの観客たちが何も疑問を感じていないように、集団社会においては報道を通じて思考の画一化がされ、多様な意見というものは押し殺されていく。

私は映画館の椅子に腰かけ、そんな私自身の影をじっと眺めていた。
やがて闇がおとずれ、彼はその中にのみこまれてしまうのだろう。あるいは彼はその奔流に押し流されて海にたどりつき、そこでまた私の影としてのつとめを果たすのかもしれない。(23章)

巨大な社会に抗うすべもない一個人である主人公が覚えた素朴な疑問といったものは、自我から切り離され、「影」として海へと流されていく。「海」とは過去の記事でも解説した通り、作中で主人公の無意識を表す重要なモチーフとなっている。切り離された意識は消滅するわけではなく、無意識の底に沈んでいるのだ。

じきにダムのニュースは終り、画面はどこかの国の王様の戴冠式の光景にかわった。飾りものを頭のてっぺんにつけた何頭もの馬が美しい馬車を引いて石敷きの広場を横切っていた。(23章)

ダムニュースの後に流れる映像は、無意識(馬)と意識(騎手)の働きの関係を表すものとなっている。王様に代表されるような支配者的な意識が無意識に手綱をかけて抑え込んだのだ。

そう考えると、私はだんだん腹が立ちはじめた。誰にも私の記憶を奪う権利なんてないのだ。それは私の、私自身の記憶なのだ。他人の記憶を奪うことは他人の年月を奪うのと同じことなのだ。(23章)

そしてこの地下世界では、再び主人公を無意識に押し流すような水流から逃れることで、初めて本体と影が分裂した場面まで記憶がさかのぼられている。過去を再現するような疑似体験を味わうことで、見捨てられた感情がすくい上げられていき、分裂前の記憶が取り戻されていく。

「ところであんたはシャフリング処置後、何かしら奇妙な症状に襲われませんでしたかな? たとえば幻聴、幻覚、失神、などといったような?
「ありませんね」と私は言った。「幻覚もないし、幻聴もありません。ただある種の匂いにはひどく敏感になったような気がします。だいたいは果物の匂いのようなものであることが多いですが」
「特定の果物の匂いがジャンクションに影響を及ぼすのです。どうしてかはわからんが、そうなっておるです。しかしその結果として幻聴、幻覚、失神がもたらされるということはないのですな?
「ありませんね」と私は答えた。(25章)

博士は「果物の匂い」についての影響や、「幻聴・幻覚・失神」の覚えがないかを繰り返し訊ねている。この確認はコーヒーが主人公に「意識の混濁」をもたらすという効果を、博士が把握しているためだと考えられる。そして主人公は繰り返し否定しているように、自分が何を体験してきたのか全く気がついていない。しかし主人公は無自覚であるにしろ、自分の意識構造を通り抜け、内なる声を聴き、意識を奪われる恐ろしさというものを、この地下世界で体験してきた。そして最後の仕上げとして、博士から自分がもう一つの意識を作り上げていたとネタばらしを受ける。

「どこにも行きたくない。不死もいりません。年をとっていくのはつらいこともあるけれど、僕だけが年とっていくわけじゃない。みんな同じように年をとっていくんです。一角獣も塀もほしくない」(25章)
私は私の意識の中なんかで暮らしたくない。誰の意識の中でも暮らしたくない(29章)

無自覚に二つの意識を通じて適応を果たしてきたと知った主人公は、無意識世界に対してはっきりとした拒否の姿勢を示す。こうした意識態度の変化によって無意識世界への依存度は薄まり、自我や意識の側が優位に立つ。地下世界での体験が主体性と独立心を獲得していくきっかけとなり、これまでは無意識に捨てられてきたような可能性や、豊かな心情を取り戻していく転換点となっている。

私もちらりと女の顔を見た。まあ美人の部類だったが、どこにでもありそうな顔だった。TVドラマでいえば女主人公の友だちで、喫茶店でお茶を一緒に飲みながら「どうしたの? このごろなんだか元気ないじゃない?」とかなんとか質問するような役まわりの顔だ。たいていは一度しか出てこないし、画面から消えてしまうとどんな顔だったかも思いだせない。(19章)

TVドラマのライターなら適当な筋書きを作りあげてしまうにちがいない。女はフランスに留学中にフランス人の男と結婚したのだがやがて夫が交通事故に遭って植物人間になった。そしてそんな生活に疲れ果てて夫を捨てて東京に戻り、ベルギーだかスイスだかの大使館に勤めている。(29章)

地上へ戻る途中に、主人公は外で見かけたスカイラインに乗った二人の若者にまつわる長いドラマの空想を繰り広げているが、地上で見た時には「TVドラマでいえば女主人公の友だち」役程度に扱われていた女が、ここではなんと主役級に格上げされている。これまで自分の内側にばかり心を向け、他人に興味を示せなかった主人公の目が外界へと開かれたことによって、以前は「画面から消えてしまうとどんな顔だったかも思いだせない」ような匿名的に映っていた存在にも個性や特徴といった面が見出され始めたのだ。この後に娘に話している俳優の名前とは、具体的な「顔」を備えたキャスティングだろう。
こうした手法は長編の「街と、その不確かな壁」(2023年作品の方)でも同じように用いられている。はじめはろくな喫茶店が無いなどと興味を持てずにいた町の中に、気になる店が見つかったり、そこで女性に話しかけてみたり、急に誘いを掛けたくなったりと、一般社会の生活に価値を見出していく様子が段階を踏んで表現されている。

そこまで思いついたところでさすがに馬鹿馬鹿しくなって私はそれ以上考えるのをやめた。そんな筋書きは現実とは何の関係もないのだ。(29章)
この前最後に小便をしたのはいったいいつのことだっただろう?(29章)

この空想を途中で「馬鹿馬鹿しくなってやめた」と打ち切っているが、こうした空想癖というのは1章の時点から描かれてきたもので、主人公の現実からの逃避癖を象徴するものだ。空想に頼るのを止め、悪癖を捨てきろうとすると、その後には排尿に固執する様子が見られる。排尿を気にしているのは古い意識や、誤った考えを「排出」したがっているためだ。この排尿は地上に帰った後に再び象徴的な行為として表現されることになる。

「マクドナルドのコーヒーなんか飲まない」と駅員は言った。「あんなもの金の無駄ですよ」(31章)

地上に戻った主人公は、まず切符の値段について駅員と無益な論争を繰り広げることになる。型通りの返答を繰り返し、融通が利かない駅員は、1章と3章で職業的態度を全面的に出して対応していた主人公のパロディーとなっている。対応には個人的な感情が排除されていたり、マクドナルドなんか行かないと断言しているのも、価値観を狭めて可能性を締め出してきた主人公の生き写しだ。そして主人公は地下に潜る前にドライブスルーでハンバーガーを買っていた(これが恐らくマクドナルド)わけだから、マクドナルドというのは地下世界への導入や入口の部分にあたる。駅員とはその入口にも立っていない主人公の分身というわけだ。

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