馬モチーフについて 大いなる遺産 ディケンズ

エステラと結婚したドラムルは物語の終盤で馬の扱いをしくじったために死んだ、などと一言で片づけられる。この「馬」とは本能や衝動といった無意識面の働きを表すためのモチーフであり、作中でおびただしく利用されている。ドラムルの事故というのも単に偶発的なものではなく、自分自身の感情をコントロールできずにその報いを受けたという意味を持っている。

騎手は自分の力で馬を動かしているのか、それとも馬に自分が動かされているのか、その境界線が分からなくなってくる。そのため騎手は意識面を、馬は無意識面を表している。これは現代でいうと車の運転に似ていて、人が変わったように荒っぽい運転をして人を出し抜こうとしたり、優越性を持ったつもりになってしまう場合などに当てはまる。普段は意識下に押しやっている不満が表面化され、噴出した情動に理性が負けて主導権を奪われているのだ。馬や車と一体化し、意識と無意識の境界が曖昧になったとき、理性が衝動を統御できないと逆に無意識に乗っとられてしまう。馬は人間の感情、本能といった動物的な性質を表現するのに適している。

「さあ、坊主!今日おまえが行ったとき、ミス・ハヴィシャムは何をしていた?」パンブルチューク氏が尋ねた。
「坐ってました」わたしは答えた。「黒いビロードの馬車に
でも馬はついてませんでした」(9章)

サティスハウス訪問後、ピップは姉とパンブルチュークに作り話を聞かせている。ピップの話ではハヴィシャムは「馬車」に乗っているが「馬」は見えていない。これは激情に支配されて、復讐に燃えているハヴィシャムの心の動きを、ピップが見抜けていないという様子を表したものとなる。

つまり仕事というのは、ミス・ハヴィシャムを連れて部屋のなかをぐるぐる歩き回ることだった。彼女を肩に寄りかからせ、(最初に屋敷に足を踏み入れたときの衝動にしたがって)パンブルチューク氏の二輪馬車にも似た速さで進んだ。(11章)

次回の訪問からはハヴィシャムを連れて部屋内をぐるぐる回るという奇妙な仕事をさせられるが、「馬車にも似た」などと例えられているように、ピップはここで明らかに馬の代わりをさせられている。カッコ内の「最初に屋敷に足を踏み入れたときの衝動にしたがって」という部分は、ピップの野心や情動を補足するものであり、不純な動機が増幅されていく様子が見てとれる。
ここでピップはエステラが「男の心をずたずたにする」ための練習台として利用され、ハヴィシャムの復讐心をたっぷり注ぎこまれているのだが、ピップはその事実を認めようとしない。

ミス・ハヴィシャムの答えが聞こえたと思う――とても信じがたい答えだったが。
「だから何?この子の心を引き裂いてやればいい」(8章)

ピップはハヴィシャムの激情を担わされる馬役をさせられ、ハヴィシャムの意図や目的も見抜けぬまま、高慢で冷たいエステラに憧れを抱かされ心を釘付けにされる。仕事が終わって報酬を受け取った後も、ハヴィシャムの情動を担わされたピップは人生行路を大きく乱される。
なお「マシューの話をする」(11章)ときだけ、ハヴィシャムが馬(ピップ)を止めているのは、卑劣な考えをピップから遠ざけるポケット父子の役割を示唆している。他にも遺産相続の条件として「常にピップを名乗る」(18章)という取り決めを、ハーバートだけは破ってヘンデルと呼んだりもする。

途切れがちな眠りのなかで、私はひと晩じゅう馬車の夢を見た。夢のなかではかならずロンドンではない場所に向かっていて、しかも引いているのは犬や猫、豚、人間で、馬にならなかった。(19章)

ロンドンに旅立つ前夜にも、ピップは馬車に乗る夢を見ている。馬が出てこないのはハヴィシャムの馬が見えなかったのと全く同じ理由で、自分の見栄っ張りな性格や、不純な動機と向き合えていないためだ。自分の馬(本能・情動)が見えていないピップには、正しい目的地にも辿り着けない。

「おまえが作った蹄鉄を四つ差し上げてもいいが――いや、そもそも馬がいないんだから、贈り物に蹄鉄というのはおかしいか――」(15章)
午後にはあちこちの公園を訪ねて、あれだけ多くの馬の蹄鉄は誰が作っているのだろう、ジョーであればいいのにと思った。(22章)

馬を制御したり乗りこなすために必要な道具が「蹄鉄」であり、ジョーが馬の蹄鉄を渡す提案をしたり、ピップからも蹄鉄を作る人として扱われているのは、自分自身の情動を制御する必要性を知っており、そのための術を試行している人物だからだ。

他にも、ヤスリ男から話を聞かされたり(27章)、トラブの小僧に虚栄を暴かれて苦い思いを味わったり(30章)、監獄のにおいがまとわりついたり(32・33章)と、ピップに知りたくない真実が迫る際には馬車がついて回っている。マグウィッチが登場すると、彼は馬を持たせようとして(40章)ピップを苦しめている。自分の卑しい性質を認めるよう追い込まれているのだ。
ピップの夢が破れてからは、宿屋(45章)やジャガーズ家(48章)に向かう際に馬車に乗ったりと、今度は意識下に追いやっていた危機や真実に接近する際に馬が利用されている。

エプソム競馬場で、ある男と知り合った。そいつの頭が今ここの炉格子の上にのってたら、ロブスターの爪みたいに火箸でかち割ってやるんだが、名前はコンピーソンといった。(42章)
大競馬のまえの晩、おれが知ってる外の屋台で、やつは何人かの仲間とテーブルについてた。(42章)

マグウィッチとコンピーソンが出会った場所も競馬場となっている。大きなレースの前日と設定されているのは、この出会いが二人の情動をぐるぐる激しく動かすことになる今後の波乱を予感させる。

ジョーが隣に坐って、私たちの馬車は、木々や草花が早々と夏の豊かな生長を見せ、大気に夏の心地よい香りが満ちている田舎へと走った。
あたり一面の美しさを見渡すうちに、自分には感謝の気持ちが足りないと感じ――感謝するにはまだ体が弱りすぎていた――私はジョーの肩に頭をのせた(57章)

マグウィッチの死後にピップが病に倒れると、ジョーが看病しに来てくれる。ピップが回復してくると、ジョーは馬車に乗せてくれるのだが、ここでピップは初めて感謝の気持ちが足りなかったと自覚し、反省することになる。ジョーはピップが自分の暗い面を見つめるための手助けをしてくれるのだ。

作中で馬車を所有しているのがパンブルチュークとドラムルであるのも、この二人こそピップに生き写しの人物であり、ピップが自覚したがらず意識下に押し込んでいる性質の持ち主に他ならないためだ。馬持ちの彼らがピップに憎らしく映っているのは、直視したくない自分自身の気質そのものを見せつけられているからだ。パンブルチュークの「馬車の車輪止めのピンを抜きたい」(12章)など苛立ったりと、ピップには卑しい自分の姿を見るのが耐えがたく感じている。

「あなたがあの男を焚きつけて馬で遠出し、今日いっしょに食事をすることも?」
エステラは、私がそれを知っていたことに虚を衝かれたようだったが、また「事実よ」と答えた。(44章)

エステラがドラムルの馬車に乗ったという事実とともに、二人の婚約を知らされることになる。エステラとドラムルが同じ馬に乗るのは、二人が似た性質の持ち主である事実を示しており、ピップにとって最も認めたくなかったエステラの実像と直面する場面で馬が使われている。

「これが彼だ!」パンブルチュークは言った。「私の馬車に乗せてやった子、手で育てられるのをこの眼で見守った子」(58章)

だがこうした馬の存在は、ピップ自身に暗い半面を見直す機会を与えてもいる。物語の最後でパンブルチュークがする説教にピップが耐えられず反発してしまうのは、この時点では反省はしていても、まだ自分の欠点や不愉快な事実を受け入れられるだけの精神が備わっていないためだ。この後ハーバートの会社に務めることで得られる鍛錬や経験こそがピップにとって貴重な財産となる。

その彼が馬の扱いをしくじって起きた事故で死んだことも聞いていた。(59章)

もしもピップがエステラというトロフィーを手に入れていた場合、その行く末はドラムルの最後が雄弁に語っている。馬の扱いをしくじるとは、虚栄や虚勢をますます振りかざして支配的態度に捕われ、膨れ上がった自分の情動を制御できなくなった状態にある。その結果受けることになった報いが馬の事故に例えられており、事故も偶然に起きたのではなく、彼が起こしている。

それはポニーに牽かれた小さな馬車で、女性自身が手綱を握っていた。

あとがきに掲載されている没エンディングでは、馬車に乗ったエステラがジョーの子供をピップの子と間違えている。かつては羨望のまなざしを受け、優雅な暮らしをしていたエステラが、今や不幸な結婚生活へと転じてしまった事実、それに伴う嘲りや批判などを甘んじて受ける心構えを持っており、また子持ちであるらしいピップには実生活ですっかり出し抜かれたことも素直に認め、相手を祝福できるような許容さが備わっている。冷酷さや高慢さを克服し、心情を穏やかに飼いならすに至った内面の成長ぶりが、小さな馬を乗りこなした姿として相応しく描かれている。

タイトルとURLをコピーしました