逃亡計画は何故失敗したか 「大いなる遺産」 ディケンズ

1.
52章でピップは匿名の手紙を受け取り、故郷へと呼びつけられる。ここでは危うくオーリックに殺されかけるのだが、その前後も含めてピップの忘恩ぶりが3連続で語られている。

まずは宿屋で食事をしていると、パンブルチュークに恩を返さなかった少年の逸話を聞かされる。実際にはピップに財産を与えたのはマグウィッチであるので、パンブルチュークは何も関係が無い。しかし、財産を与えたのがハヴィシャムだと誰もが信じ込んでいた頃ですら、ピップはパンブルチュークに一切感謝しようとはしなかった。パンブルチュークはハヴィシャムにピップを紹介した「恩人」であるはずなのだが、ピップはパンブルチュークからのおだてを気持ちよく受け取っただけで、共同経営者の提案などは一切無視してきたのだ。逸話は起きた出来事としては事実ではないものの、ピップの本質に関しては事実を言い表している。
この話を聞かされてもピップはひたすらパンブルチュークが恥知らずで卑劣であるなどと、罪を一心に押し付けようとするばかりで、自らの不義理は一切認めようとしない。
たしかにパンブルチュークは恥知らずで卑劣な男には違いない。しかしパンブルチュークを無碍に扱うことで、明らかにピップはパンブルチュークへの復讐を企てたわけだから、立場が反転したら復讐され返すのも当然のことなのだ。この場でピップが認めるべきであったのは、自らの恥知らずで卑劣だった行為に他ならない。

次にはオーリックに捕まると、ガージェリー家で受けた扱いの差、門番をクビにされた恨み、ビディとの仲を邪魔された過去など、今まで妨げられてきた数々の振る舞いについて訴えられるが、ここでもピップは一向に加害者意識を認めるつもりが無い。オーリックがジョー夫人やピップに暴行をふるったのは、ほかでもないジョー夫人やピップがオーリックに復讐心を植え付け続けてきたせいなのだが、オーリックから恨み言を聞かされてもピップには一向に反省する気はない。

最後に、この窮地を助けにトラブの小僧が来てくれる。トラブの小僧はこれまでピップの虚栄を暴き、真実の姿を映し出してきた。

ここは平然と知らぬふりで眺めやるのがいまの自分にふさわしく、小僧の邪悪な心を戒めることにもなるだろう(30章)
すると、入り口近くでぶらぶらしていた人のなかに、偶然トラブの小僧がいたのだ。例によって用もないところにかならず現れる特技を披露したわけである(53章)

ピップはトラブの小僧が「用もないところに現れる」などと厄介者扱いしているが、見栄を張りながら服を買ったり、紳士の姿を見せつけるために街をぶらつくなど、わざわざ用を作ってまで邪悪なことをしているのはピップの方なのだ。しかしピップは前述の二人と同じようにまたもや相手を敵視するばかりで、自らの行いについては自覚したがらない。そして今度は命まで助けられたというのに、まだトラブの小僧を偏見をもって見ようとしている。

小僧は、自分の介入によって私が石灰窯から救われたと知ったら、ひどく落ち込んだにちがいない。(53章)
いままで悪い印象を抱いていて申しわけなかったと謝った(小僧はこちらには無反応だった)。(53章)

ピップは形だけの謝罪はするものの、トラブの小僧が危険を招く存在であるという考えは変えていない。トラブの小僧が謝罪に対して無反応でいるのは、ピップの見方が全くの的外れであるからだ。

こうした経緯を経てピップはオーリックからは逃れられる。しかし自らの罪からは逃れたわけではない。この騒動の後、すぐにピップはマグウィッチが逮捕されるという不安に付き纏われることになる。この不安は自らの影(暗い面)を自覚できなかったという己の罪悪感から生まれている。

「もっと教えてやろう、狼め。これで最後だ。おまえにオーリック先輩という好敵手がいるのと同じように、プロヴィスおじさんにも敵がいるぞ」「マグウィッチめ、コンピーソンと絞首台に注意しやがれだ!」(53章)

ピップにオーリックという影がいたように、マグウィッチにもコンピーソンという影が存在する。そして自分自身の卑劣な半面を見ようとせず、影を掴みきれなかったピップに、マグウィッチが影から逃れるための手引きなどできるはずもない。次の54章からマグウィッチの逃亡計画が開始されるが、コンピーソンが監獄に流した噂で「裏」をかかれたピップは、コンピーソンの接近に一切気づくことができない。コンピーソンという影から逃れられずにマグウィッチが逃亡に失敗するのは、自分の影や裏面を見ようとしなかったピップの自己欺瞞と無反省さによるものだ。

2.

「おまえにおじきがいたとはな!おれはおまえがガージェリーの家にいたときから知ってる。あのころはほんのちっぽけな子狼で、この親指と人差し指でつまんで投げ捨ててやれるほどだったが(おまえが日曜に林のなかをぶらぶらしてたときなんか、何度そうしてやろうと思ったことか)、おまえにおじきなんかいなかった。いるもんか!」(53章)

台詞の「カッコ内の部分」からは、オーリックがピップに向けている敵愾心と殺意が読み取れる。これまで幾度もピップがオーリックに抱いていた不安や警戒心が的中し、命を付け狙われる危機と隣り合わせであった事実が明らかになる。今まさにピップの命が奪われようとしている瞬間、オーリックが絶対的な悪人であることがより読者に印象付けられる。

ところで本作の語り手は無論ピップ本人だが、語り手以外の人物の台詞内に、このようにカッコで区切られた部分が含まれていると、これらカッコ内の部分はどのように述べられていたのかという疑問が生じてくる。これが語り手の台詞内のことであれば、本人の内心を補足するものとして読み取ればいい。しかしこれが他者の台詞となると、後日当人に会って内心を聞いて補足した・・・などという不合理な状況に行き当たってしまう。

これらカッコ内の台詞とは、ピップが他者の内心を補完しようとして、勝手に付け足したと考えて読むと筋が通ってくる。上記の場面においては、オーリックの攻撃性をより強調することで、ピップはオーリックの人物像を正しく読者に伝えようとしている。しかし語り手の心情を差し引いて、すなわちカッコ内の部分を除いて台詞を吟味してみると、実際の人物像とピップが信じたがっている人物像との間に差異が見出される。これによって読者は、ピップが抱いている偏見や、作中で語り手が読者に押し付けようとしているイメージの虚像を暴くことができる。

上記の場面では、「この親指と人差し指でつまんで投げ捨ててやれるほどだった」と聞いたピップは、オーリックが昔から殺意を持っていたものと信じ込んでいる。そのためカッコ内では、「(何度そうしてやろうと思ったことか)」とオーリックの殺意が付け足されている。しかし台詞からカッコの部分を取り除くと、ただ粗野で口が悪いというだけで、オーリックはピップを幼い頃から知っていたという事実を説明していたにすぎない。

ピップは自分がオーリックに抱いている印象を、読者にも承認させる目的で付け加えを行っている。この場合はオーリックに殺害者のイメージを植え付けることで、オーリックを軽蔑し続けてきた自分の正当性を主張しようとしているのだ。しかしカッコで付け加えられたオーリックの台詞は真実ではなく、ピップの偏見や内面の真実を露呈させたものとなっている。
ピップがこのような付け加えまで行わなねばならなかったという事情は、オーリックを侮辱し続け、相手に復讐心を植え付け、果ては殺意まで向けられるに至った自分の野蛮さを認めたくないためにほかならず、意識下では殺意を向けられるような原因が自分自身にあったと認めていることになるのだ。

新潮の翻訳ではカッコ内の台詞もほとんど原文に忠実に訳されているので、容易に比較が可能となっている。カッコ内の台詞の効果によって姉やパンブルチュークの厭味ったらしさはより強調されている。単に話の流れを分かりやすくするために追記されたとみられる台詞もある。そしてピップが心通じ合える相手であるハーバートには優しさや、ジョーには純真さが付与されることで、評価や信用の表現として役立っている。

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