燃える花嫁衣裳 大いなる遺産/ディケンズ

これ以上面会を続けてどうなるというのだろう。ハーバートの件は片づき、ミス・ハヴィシャムはエステラについて知っていることをすべて語り、私は彼女の心を安らげるために言えること、できることを尽くした。ほかに何を言って別れたかは重要ではない。とにかく私たちは別れた。(49章)

作中でたびたび付け加えられている「重要ではない」という一文は、もちろん注目すべき事実の痕跡を読者に示唆している。「ほかに何を言って別れたかは重要ではない」、つまりピップは別れ際に、ハヴィシャムに何かを言っているのだ。この後ハヴィシャムは花嫁衣裳を燃やすと、ピップと「敵同士」のようにもみ合い、「囚人」のように押さえ込まれている。
ピップは取っ組み合いの間、「彼女が誰なのかも、なぜ取っ組み合っていたかも、彼女が燃えていたことも、火が消えたことすらわかっていなかったかどうか疑わしい」と、全く無意識のままに行動を起こしていて、二人の間で起こったことが何を意味するのか分かりづらい。

ピップは39章でマグウィッチに再会し真実を知らされると、44章でサティスハウスに赴き、エステラへの想いを告白している。ここでピップは自分の哀れな恋について、たとえ心が張り裂かれようが、それは素晴らしい感情だったと肯定的に述べている。

「あなたがつらい思い出より、いい思い出をはるかにたくさん残してくれたことはまちがいない」(44章)

エステラの心は微塵も動かされてはいないが、ハヴィシャムはかつて自分でも抱いていた哀れな恋心を思い起こされて胸を押さえる仕草をしている。彼女は49章でピップを呼び出すと、自分がした仕打ちを反省してピップに謝罪し、ハーバートへの支援を決める。

ピップとハヴィシャムは互いに同情的な目で向かい合う。ハヴィシャムはピップに、「ぼくは彼女を赦す(I forgive her)」と書いてほしいと許しを乞う。ピップは実際にサインこそしていないが、恩知らずであった自分の過ちを述べ、自分こそ許しを請う立場であると告げている。被害者意識などは持たず、「あなたにつらく当たれるわけがありません」と、ハヴィシャムのことも責めずにいる。
ピップは初めてセイラポケットらと会ったとき、彼女らが「おべっか使い」であることを見抜くと、「姉とよく似ていた」などと、姉との共通性を見出している(11章)。セイラポケットらがハヴィシャムにおべっかを使う様子が、パンブルチュークに媚びを売る姉の姿と重なって見えていたのだ。ハヴィシャムが親戚たちに復讐するのを目の前で見ていたピップも、内心ではこの悪だくみに喜んで加担していたのではないか。そのためハヴィシャムに利用されたとて、ピップは謝罪を受ける側ではない。

しかしエステラについては「別」だと明言する。

「彼女の本来の心を残しておくべきでした」私は言わずにはいられなかった。「たとえあとで傷つき、打ち砕かれるのだとしても」(49章)

泣き崩れ、哀願するハヴィシャムに向かって、ピップはエステラの心を壊したことについては明確に責めている。
ピップはハヴィシャムが親戚を懲らしめるために自分を利用したことは許せている。期待を持たされたがゆえに、エステラに哀れな夢を抱いたことでもハヴィシャムを責めていない。しかしハヴィシャムがエステラの心をからっぽにしたことは許せていない。
「ほかに何を言って別れたかは重要ではない」。恐らくピップは去り際に、ハヴィシャムがエステラにした仕打ちは決して償いきれぬものであると告げたのだ。そのため良心の呵責に駆られたハヴィシャムは、自分の夢や憧れが込められ、そして復讐心へと変わっていった、大切な花嫁衣裳を焼いてしまうほどに追い込まれている。

私たちは必死で戦う敵同士の様に床の上でもみ合った。(49章)
私はまだ彼女を、逃亡の恐れのある囚人のように全力で押さえこんでいた。(49章)

ハヴィシャムはピップからは許されたが、エステラの心を壊した罪悪感に苛まれている。想いが込められた花嫁衣裳を燃やしてしまうが、それでも男に裏切られた過去の遺恨は晴れようがない。そのためエステラを使って不特定多数の男たちに復讐したように、燃える衣装に身を包みながらも「敵」のように目の前にいる男(ピップ)へと怒りをぶつけている。
ピップとハヴィシャムは互いの心情を理解しあえていても、恋心を壊された過去は癒えることはなく、ここで心の奥底でうごめいている憎しみをぶつけ合っているのだ。ハヴィシャムは囚人(罪人)として取り押えるべき存在であるというのが、ピップの内心における真実なのだろう。

やけどを負ったハヴィシャムはベッドでうわ言のように「わたしはなんてことをしたの!」「あの子が最初に来たとき、私のような運命から守ってやりたかった!」「ぼくは彼女を赦すと書いて!」と繰り返している。新潮の翻訳では「I forgive her」が「ぼくは彼女を赦すと書いて!」と訳されているが、ハヴィシャムのうわ言は全てエステラに向けて許しを請う台詞であると考えられるので、「I」は「ぼく」(ピップ)ではなく、「私」が適正だろう。

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