1.
30章でハーバートはクララという婚約者の存在をピップに打ち明ける。彼女は労働者の娘で、父は病気で寝たきりでいる。
「二階で」ハーバートは言った。その答えは見当ちがいで、私は、生計をどうやって立てているのかと訊いたつもりだった。(30章)
ピップはクララの収入源について尋ねているのだが、ハーバートに「見当ちがい」の応えをされ、住まいの様子について説明されてしまう。二人はその後、役者となったウォスプルの気の毒な舞台を見に行くが、自分まで落ちぶれた気分にさせられてしまったピップは、夢の中で遺産を失い、クララと結婚し、役者となって辱めを受けている。ピップはクララに抱いた印象を何も語ってはいないが、見た夢の内容から、貧しい労働者の娘であるクララとの結婚は凋落を意味しており、ハーバートの恋人をどのような目で見ていたのかが分かる。
上記の会話でハーバートは質問の意味を取り違えたようピップに思わせているが、実際は上手く話をはぐらかしている。ピップが勤勉な労働の美質など理解するはずもないことをよく知っているハーバートは、自分の婚約者を悪く思われたくなかったのだ。ピップが夢見る世界と、クララが住む世界とは交じり合わない。しかしその両方を行き来しているハーバートは、しかるべき時期が来ると、ピップにクララの暮らしを見せてくれる。
エステラとの結婚の夢が敗れ、哀れな夢から解き放たれると、ピップは少しずつ真実を見据えていくようになる。ハーバートのアイデアにより、マグウィッチがウィンプル夫人の下宿に避難させられると、ピップはこれまで嫌われていて会ってはくれなかったというクララとようやく対面する。
ピップはフランス帰りのエステラと再会し、その美貌に目がくらんで以降、ことごとく他の女の容貌を貶し続けてきた。しかしクララとウィンプル夫人には好印象を抱き、称賛を注ぐばかりかエステラと比較して考え直しもする。
クララの重荷となっている老バーリーについてハーバートは不満を口にするが、ピップにもこの光景が他人事として映っているはずはない。介護が必要な姉を捨て、貧しい家も生まれも記憶から葬り去りたがってきた自分自身の行いが、ここでクララとウィンプル夫人の献身ぶりや連帯性と比較されている。これまで卑しい犯罪者であるマグウィッチを一方的に追い払おうとしていた気持ちにも迷いが生まれている。
老バーリーは大食いだという点でマグウィッチとも重なる。ここで老バーリーの言葉は「逆」の意味で記されていたり、またマグウィッチと階段で別れる際には、ピップは以前とは上下で位置が「逆」になったことを感じている。守る側と守られる側の役割が交換されたことで、初めて守る側の苦労や責任の重さを実感しているのだ。クララたちは、ピップの誤った意識づけを見直し、態度を反転させ、再出発するための機会を与えている。
2.
鳩小屋は強い風に吹かれて柱の上でひん曲がり、もし鳩たちがなかにいたら、ひどく揺れるので海の上にいると思ったに違いない。(8章)
サティスハウスを初めて訪れたピップは、館の状態から船を連想している。するとその後は、航海に出る船と自分の出世とを結び付けて考えるようになる。15章や17章でビディに夢を打ち明ける際などにも、二人の目は船に向けられている。また「船舶」保険の仕事に就こうとするハーバートには投資したりもする。ピップが思い描いていた紳士への航海は、マグウィッチとの再会で「これまで乗ってきた船が粉微塵に砕け散った」(39章)と表現されるように無残に敗れ去る。
クララとウィンプル夫人の住居に向かう途中では、船の残骸が修理・解体されている様子を目の当たりにしている。下宿先ではかつて「旅船」で働いていたという老バーリー、「監獄船」から出てきたマグウィッチと、船の難破者たちと対面すると同時に、彼らを援助するクララとウィンプル夫人に感化され態度を改めるようになる。
現状を見すえ始めたピップが、難破した船に代えて、今度は自分の力でボートを漕ぎ始めるようになると、「ふたつの出会い」(47章)というものが生まれていき、これまでは見えていなかった真相が露わになっていく。作中ではピップの出世から挫折、再出発から結末までが船の描写によって演出されている。