1.
デイヴィッドがヤーマスに滞在した最後の晩に、エミリーとの隔たりを大きく縮める機会が訪れる。マーサの境遇を知り、自らの高慢さを咎め、思い上がりを棄てようと決心したエミリー。涙を流して誓うエミリーを前にしたデイヴィッドには、それまで彼が装っていた英雄的な気取りは見られない。エミリーの告白した欠点とはデイヴィッド自身が抱える問題でもあった。弱さを打ち明けたエミリーの姿は、新たな様相を帯びてデイヴィッドの目に映っている。
この一文からは、かつて愛した無垢な少女の成熟した姿を受け入れようとしている、デイヴィッドの成長の兆しが見出せる。幼年時代への執心から離れられずにいたデイヴィッドが現実と向き合い、主体性を持ち始める機会となっている。
この出来事をデイヴィッドはスティアフォースにも語ろうとせず、帰りの馬車では「これこそ相談したい問題」だと、代わりに職業相談を持ち掛けている。彼が抱える課題に区別がつけられ、これまで絶対的な指導者だったスティアフォースにも一線が引かれている。デイヴィッドはスティアフォースの判断に頼ることなく過去を克服しなければならないことを知る。この後にはアグニスからの助言もあって、スティアフォースから離れ始めている。
ところがデイヴィッドに訪れた成長の機会とやらはどうなったのかというと、どうもドーラの登場によってうやむやにされてしまったようだ。ドーラは失われた母の面影や、成就されなかったエミリーとの恋といった、幼年時代の願望をデイヴィッドに再び呼び起こさせている。ドーラに初めて会ったデイヴィッドは、幼いエミリーを引き合いに出している。
かつての純真な恋が蘇り、浮かれて分別すら無くしてしまったことを、語り手は母やエミリーの思い出と同じように肯定して思い返している。
ドーラに会う機会を求めて町をうろつきまわったり、装飾に凝り始めたり、財産を与えられる妄想をするなど、ミス・ラーキンズ相手に取った行動を繰り返し、学生時代まで立ち返ってしまっている。その後の章でも立て続けにドーラが思い返され、デイヴィッドの気もそぞろな様子が記されている。恋焦がれる様子をクラップ夫人に見透かされると固く秘密を守ろうと決意するものの、ミコーバーにもあっさり恋を見抜かれる。コミカルな様相で語られる恋の裏側には、彼の意志の弱さや、優柔不断さといった致命的な欠陥が見えている。
ごく短い間に過去との決別から、過去との再会を経験したデイヴィッドは、再び退行状態に陥っている。理想の女性が再現されて現れたことで、デイヴィッドは過去を克服する必要がなくなってしまうのだ。またスティアフォースへの崇拝も根深く、アグニスの助言の甲斐なく再び呼び起こされている。
2.
ミス・モウチャーはリティマーの作り話に騙され、駆け落ちの手助けをしてしまったことに気づくと、彼らの陰謀を知らせに来てくれるが、デイヴィッドの褒め方にも誤解を招く要因があったと指摘をしている。観察眼の鋭い彼女が、リティマーの作り話を信じてしまうのに十分なほど、エミリーを褒め称えるデイヴィッドの熱意がただならぬものだったことが分かる。まだマーサとの別れに立ち会う直前であるデイヴィッドは、幼年時代に抱いた純真なエミリー像をスティアフォースに語っていたのだった。
幼年時代の幼稚な愛を神聖化したままのデイヴィッドの価値観が、自分の在り方に悩み、受けた教育を悔やんでいたスティアフォースに与えた影響は大きく、その後の人生を決定的に変えてしまっている。スティアフォースはエミリーを仲介者として、新たな価値観を築こうと彼女を連れ去ってしまう。
デイヴィッドはドーラと出会ったことで、エミリーはスティアフォースの誘惑によって、一度閉じ込めたはずの子供時代の夢が蘇ってしまう。その二人の迷いが、バーキス家の屋根裏部屋で重なっているのだ(30章)。
3.
バーキスが埋葬された日の晩――それはエミリーの駆け落ちが発覚する日だが――船の家で、内輪で集まることになる(31章)。その翌日にはデイヴィッドとペゴティーは遺言の手続きでロンドンに帰ることになっており、二週間もすれば、ハムとエミリーは挙式ということだから、この集まりはデイヴィッドを加えて結婚前の祝い事をする最後の機会ということになる。またデイヴィッドは、遺産の手続きに忙しく一週間エミリーに会っていないと述べている。
デイヴィッドは埋葬後「ぶらぶら歩いて帰る」と言って、ひとり馬車に乗らない。何の用もない反対方面のローストフトへ歩いては引き返し、時間が無駄に潰されていながら、デイヴィッドの心の内は何も明かされない。船の家では食事の準備が出来ているのに酒場で食事までとっている。なじみの渡し舟を使えば、船の家まで100ヤード(90メートル)ほどの場所に降ろされるはずだが、船についての記述があるだけで使った様子はない。そんなわけでペゴティーたちは日暮れ頃待っているよと言っていたのに、デイヴィッドが船の家に着いた時には夜で月も出ている。
デイヴィッドがぐずぐずと時間を引き延ばしていたのは、いまだに他人の妻となるエミリーと向き合うことへの、気持ちの整理がついていなかったためだろう。ドーラとの出会いによって、幼年時代のわだかまりの中に再び戻されたデイヴィッドは、エミリーの結婚と向き合うことに再び臆していたのだ。デイヴィッドには子供時代に純粋な愛を語り合った、幸せな日々を聖域として大事に守り続けたいという子供じみた未練が、いつまでも捨てられずに残っていた。成長の痛みを受け入れず、引きずり続けた彼の未熟さが、無意味そうな徘徊の裏に隠されている。
エミリーが駆け落ちした後、デイヴィッドの想い描いていた理想の世界には、ほころびが見え始める。スティアフォース、ガミッジ、ミニー、モウチャー、ローザと立て続けに、これまで彼の見てこなかった側面を知ることになる。33章ではスペンロウ氏に向かって、これまで貴族の卵や特権階級などと呼んで誇りを抱いていた民法博士界への不信をぶちまける。この会話は初めてスペンロウ家に向かう26章で、民法博士界への自画自賛を聞かされた場面と対称をなしている。
それでも彼はドーラに婚約を取り付けるのだ。自分とエミリーがとった選択が、誤りでないことを信じて過去の夢を追い求めていく。この章では、おあつらえ向きにマードストンまで再登場して、昔と変わらぬ信念をデイヴィッドに突き付け、家庭と将来を不幸にされた記憶を呼び起こさせている。
デイヴィッドは子どもの頃にエミリーに愛を語った時と似たような告白をドーラにも繰り返している。10章でエミリーと再会したときの告白の言葉は、少し現実的になったエミリーに笑われてしまっているが、ドーラは彼の幼稚な言葉を受け入れてくれる。
4.
「たとえば、あのミス・キットと並んで座ってらしたときなど」
「わからないんだけど、あなた、何か本心とは別のことをおっしゃってるのねえ」(33章)
プロポーズする直前に交わされた会話では、ドーラがデイヴィッドの二面性について鋭い指摘をしている。ピクニックで自分より目立つ赤ひげ男に我慢ならなかったデイヴィッドは、不貞腐れてドーラから離れ、別の嫉妬深い女と意気投合していたからだ。
デイヴィッドは自分が目立つことも出来なければ、他に目立つ男が存在することも容認できない。自らの高い理想と、現実の自分を折り合わせられずにいるのだ。デイヴィッドの欠点を早くも懸念するドーラを無視して、やや強引に婚約は取り交わされる。こうして父デイヴィッドやミコーバーらが陥った「早急な結婚」のパターンを、デイヴィッドも辿ってしまうのだ。
幼き日に夢を語り合ったエミリーとデイヴィッド。かつての夢を二人とも結婚でかなえようとし、その後は理想も並行するように敗れ去っていく。