冒頭、語り手によって物語が90年前の出来事であったことが告げられる。主人公のフィリスが甥に話をしてから、12年後にフィリスは亡くなり、それからさらに20年が経過している。フィリスが甥に「死んで、葬られ、忘れられてしまうまでは、決して口外してくれるなと口止め」していたことで、物語は既に昔話と化している。
フィリスが32年前に語った話を、甥の記憶を通して読者は又聞きする立場となるため、話に不明瞭な点があっても問い直すことは不可能だ。主人公はすでに故人であるので追及先は失われ、疑問は見過ごされることになる。彼女が「忘れられてしまう」ほどの年月の経過は、直接反駁できる証言者もいなくなった事実を表しており、あらゆる反論から守られている。
フィリスについては、
「世間に忘れられたいと思っていた彼女の願いも、わずかに一部が果たされたのみ」
「語り伝えられているフィリスにまつわる話の断片というのが、彼女の人格をまったくそこなうもの」
だと、今なお不名誉な言い伝えが残っていることが示唆されている。故人の悪評をぬぐうために、他に証言できる者がいなくなるまで待ったことには、他者からの証言や反駁を受けたくないフィリスの意図が窺われ、話の信頼性を損なわせている。
不名誉な噂の内容については伏せたまま、フィリスが不当に傷つけられていることを前提として物語る甥にも、フィリスを庇いだてたい気持ちがあるようだ。フィリスが重大な局面に立たされると、語り手はデズデモーナやクレオパトラが取った行動を引き合いに出してフィリスのとった選択を正当化しようとする。フィリスと甥の二人によって不都合な部分が割り引かれていることを、読者は意識しなければならない。
フィリスとグローヴ医師の父娘は、村はずれで世間付き合いのない隠遁生活をしている。人付き合いを避けた「暗闇での暮らし」を父が好んでいる一方で、フィリスの方はまだ「たそがれ」だというから、人付き合いに未練が残っているようだが、彼女は「人見知り」で、人に会うと相手の視線がまぶしく、首すじまで真っ赤に染まるほどだという。
不可解なのは人見知りであるはずのフィリスが、この後二人の男と交際を重ね、求婚を受けるほどに親しくなっていることだ。マテウスに至っては彼がうつむいてフィリスに気づかず近づいてくるのに、フィリスはその場から離れることもなく、むしろフィリスに気づいたマテウスの方が顔を赤らめて立ち去っている。のちもフィリスは同じ時刻に同じ場所で彼を待ち受けている。
父は隠遁生活に娘まで巻き添えにするほど人嫌いでありながら、グールドが娘に言い寄ってくると積極的に結婚を推し進める。フィリスは情熱を抱いてグールドを愛していなかったといい、グールドも理由をつけて故郷に帰るのだが、その間も父は希望を持ち続け、娘を説得し、叔母の家に軟禁してまで結婚を成就させようと、並々ならぬ執着心を見せている。
グールドには財産が無かったことから、ここには金ではなく名誉の問題が潜んでいる。父が娘の結婚に意欲を示したのはグールドが名門の出であり、フィリスにとって身分違いとなる結婚が、この界隈では「大手柄」だと言われていることにあるだろう。
父が瞑想的になるに従って医業の客足の方も減っていったという関係性から、父は村人と意思疎通を次第に図れなくなり孤立していったようだ。娘とグールドとの婚約は、大手柄であるのと同時に、「当時は自然の掟を犯すもの」とも語られており、この婚約自体が世間体を無視した取り決めであって、村人に穏当な印象を抱かせるものではない。村から孤立していた父は、彼らを見返してやりたいという望みがあったのではないか。
フィリスが村の人と向き合えず赤くなるというのも、決して人見知りで内気なためではなく、彼女が村で噂の種とされていたのが原因だろう。現に村の外からやってきたグールド、マテウスとの交際には、なんら差支える様子が見られない。フィリスは塀越しに手を握って離そうとしないマテウスに、誰か野原にいたら見られると、村からの目を気にした応え方もしている。
事件より前から、父娘と村人との間に何らかの確執があったことが下地となり、この後のフィリスについての不名誉な噂も村に根付くことになったものと考えられる。
村人と事実上断絶され、交際相手を探すことが困難だったはずのフィリスだが、村の外から人が訪れるようになると、彼女はたちまち二度も求婚を受けている。ところがフィリスが男たちから好意を受けた理由については曖昧にされている。グールドは「どういうわけか、すっかりフィリスに血筋を上げた」とされ、求婚した理由については「フィリス自身にも分からなかった」とはぐらかす。
フィリスの容姿については全く触れられていないが、かなりの美貌の持ち主であったことが窺える。グールドはフィリスに目を止めると、「まず父親と近づきに」なり正式に交際に至る手順を踏んでいる。フィリスに直接接触する前に将来を決定づける決断を下してしまうほど、容姿を見ただけの女に惹きつけられているのだ。
マテウスは村娘たちの関心を集めている「華やかなヨーク騎兵隊」の一員であるばかりか、「ひどく美しい顔つき」の美青年でもあったというが、彼もただ一度見染めただけのフィリスに会うことを期待して、再び村はずれまで訪れているのだから、こちらも一目でフィリスに惹かれている。
フィリスの容姿については伏せられて、男側の取った行動だけが語られることで、フィリスの意志とは無関係に一方的な求愛を受けたかのような印象が残されることになる。これによってフィリスは美貌で男を惑わせたり誘惑したなどの、そしりを免れることができる。
グールドがようやく結婚の約束を果たしに来たと思い込み、マテウスとの駆け落ちを直前で取りやめたフィリスは、相手から実に身勝手で利己的な話を聞かされる。グールドは婚約を破棄するばかりか、既に他の女と結婚しており、フィリスに親を説得してほしいと頼んでくるのだ。二人の対話の前に、グールドから贈り物として鏡を受け取っているのは皮肉な例えとなっている。かつての婚約者を捨て、身分の低い別の相手と結婚し、さらに厄介な親の問題まで片付けようとしたのはフィリスも同様でなかったか。そのせいか婚約を破られたフィリスに相手を咎めだてようとする様子は無い。
マテウスとクリストフが処刑されるとともに、フィリスも倒れ気を失っているため、その後の光景は見ていないはずなのだが、作中では引き続き処刑の様子がくわしく描写されている。死者に行われたこの仕打ちにこそ、フィリスに汚名が語り継がれることになった要因があり、村での語り草となっているためだ。上官の命令によって見せしめに死体は放り出され、二人は死後も辱めを受けるのだ。
「軍人といえば、記念碑のような存在であった」
「当時戦争は光栄あるものと考えられていた」
マテウスの脱走は軍の規律を破っただけでなく、当時は反社会的な行為と見なされていた。
父からフィリスと兵隊が噂になっていると嫌疑をかけられたり、村に帰ってきたグールドも噂を聞き及んでいたことから、二人の逢瀬は村でも取り沙汰されていたようだ。村人の目にマテウスはフィリスに惑わされ、名誉を捨てた男として映っており、フィリスは軍人の論理観を転覆させた女として見られている。現にマテウスは、フィリスと会うために門限を破り罰も受けている。
村の掟から外れ孤立していた父。自然の掟を犯すというグールドとフィリスの婚約。そして婚約した身でありながらマテウスと逢瀬を重ねるなど、事件以前から社会秩序を乱し、村から反感を買っていたフィリス。彼女は規則に背いて処刑されたマテウスと共に悪とみなされ、村人たちから死でも償うことが出来ない制裁を受け続けている。この汚名はフィリスが87歳まで生にしがみ付いても晴らせなかったばかりか、彼女が案じた通り、死後も噂は残り続け、その雪辱を晴らすためには甥の代に託さねばならなかった。
冒頭とヨーク騎兵隊の登場後に、語り手は今と昔で軍への見方がずいぶん変わってきたことを述べている。村に根付いている悪評をぬぐうためには、当時の軍に対する偏見が無くなる時代まで待つ必要があった。軍は世間が抱いていた華やかなイメージとは異なり、実際には兵隊の間で不満が拡がっていたことを明かし、またフィリスはマテウスが教養もあり上品な人物であったことを甥に力説して、彼の名誉も守ろうとしている。こうしてフィリスの主張によりふるい分けされた話は、次の世代に持ち越され、第三者である読者に改めて語られることによって、彼女と恋人の汚名はすすがれることになる。