1.
ルピック家の食卓風景は冷え切っていて会話も無い。ルピック氏は強情に無言を貫き、子どもたちも父に倣っている。そんな中、夫人は犬に向かって愚痴や独り言を吐くことで、家庭内における自分の立場と貢献を遠回しに主張する。暗黙の掟を破って、夫人が夫にパンを取るよう声をかけたのは、無言の食卓に会話を取り戻そうとするのと同時に、自分の存在価値の承認を求めている。
そんな夫人をあしらうかのよう、冷ややかにパン切れを放り投げたルピック氏を、子どもたちの目は見逃さない。家庭内での夫人の弱さが子どもたちにますます印象付けられ、とくににんじんの目には夫人が「人間の屑の屑としてあんな扱いを受けた」と映っている。
家父長制によって統率された一家で、父親が母親を家族の集まる食卓の場で無視し、果ては屑の屑扱いして侮辱する。子どもたちは自然と親の影響を受け、父の態度に従い、果ては夫人を尊敬しなくなっていく。夫から愛情を受けなくなった妻の体面は損なわれ、おのずと子に向ける愛情にも自信が持てなくなるだろう。夫人のにんじんへの強い当たりも、元は夫婦間の不和から発している。夫人は何とか末っ子からの関心を、暴力を用いることで媚びや憎しみという形で繋ぎ止めている。夫人が何より恐れているのは家族の誰からも関心を払われなくなることだ。年少者のにんじんに弱い立場を分担させ、夫人は地位を守ろうとする。にんじんを迫害すれば、兄と姉も面白がって加勢してくれる。
排斥された母親は、立派な教育を受け巣立っていく子どもたちのためただ雑務を果たし仕えるだけの、召使にも近い役割へと押しやられていく。夫人がにんじんに雑務を押し付けているのも、家族から愛情を受けることのなくなった彼女が、彼らのために務めを果たす意味も理由も見出せなくなっているためだ。
一人前だけで満足しなければならない。とはいえ、もっと食べてもいい、といわれれば、それはうける。
ほんとは好きでもない米で頬をふくらませる。家でただ一人、米が大好きなルピック夫人にへつらうためである(「アガト」)
姉と兄がお代わりをする際には、父を真似て無言で皿を押し出す(「アガト」)のだが、にんじんは食事の量まで夫人に管理されている。夫人はにんじんの意思を奪い、自分の好みを押し付けて強引に連帯性を持たせ、自分の居場所から締め出されまいとする。
家族から少しの尊敬も払われない夫人だが、ただ一度「釣ばり」の章では特別な心づかいを受ける。指を貫通する大怪我を負うと、危機に駆け付けた姉と兄に支えられ、ルピック氏の処置で助けられる。怪我の原因を作ってしまったにんじんは、罰を食らうことばかり考えていたところ、優しく言葉をかけられ驚いてしまう。この話では指に傷を負ったにもかかわらず、家族から愛と献身を受けたことで夫人の心は満たされている。夫人の指を貫いた傷は心の傷に比べればよっぽど浅い。
「オノリーヌ」で老齢の召使に接しているルピック夫人は、気まぐれな横暴にふけるような自己本位な性格ではなく、むしろ頑ななオノリーヌを穏やかにたしなめようとする。家政を円滑に取り組もうとする姿勢のほか、単なる雇用関係を超えたいたわりや、こまかな心遣いが見られる。
2.
最終的に家庭内のきしみを押し付けられているにんじんは、モグラや猫を虐待する。自分が生け贄にされることで一家の規律が保たれていることをよく感じ取っている子は、年長者に習って新たな生け贄を生み出しているのだ。
最終話でにんじんと対峙するのは、天敵のルピック夫人ではなくルピック氏だ。知恵や分別をつけ始めたにんじんは、これまでいじめを見て見ぬ振りをしてきた父に直接疑問をぶつけている。
母子に介入することを避けるばかりでいるルピック氏に、にんじんは従来の家族関係を続けることの限界を訴え、家から離れる道を探ろうとする。この提案にルピック氏は断じて応じようとはせず、その理由というのも世間体を気にかけたり、過去のやり方にやたら固執したりと、終始自己中心的な言い分ばかりで、にんじんの心情を理解しようとする素振りも見られない。ひたすらにんじんに我慢を強いるのみで、あくまで家庭内のしわ寄せを押し付けようとする。
にんじんに問い詰められ、言い逃れもままならなくなると、ルピック氏は最終的に夫人を愛していない旨を引き出される。父の言葉でにんじんは母への愛情を持たないことを、正当化する道理を得て喜びに沸く。ルピック氏は夫婦間の改善に努めるよりも、自分との共通性を子に持たせることで、その場をしのぐのだ。
にんじんはルピック氏の責任逃れするような考えをはっきりと引き出していながらも、最後の場面ではルピック氏に子供らしさを見せて懐こうとしたり、また夫人の情状が推し量れるような場面がいくつも作中に残されていながらも、物語は夫人への罵倒によって締めくくられている。このことは干渉を避けるばかりのルピック氏よりも、夫人から受ける直接的な暴力の方がにんじんに強い遺恨を残すこと、そして親の矛盾や不可解さに気が付いていても、子は心の支えとして親を必要としており、結果ルピック氏に頼らねばならなかった子どもの特性が反映されている。今後にんじんがルピック氏の見解を盾に取って、夫人と対峙するようになれば、家庭内の弱者の割合は夫人に寄ることになるだろう。