1.
子を立派な社交界に入れるために逆立ちを教えている親アヒルに、独り者のネズミは愛より友情の方がずっと高級で貴いと主張する。ネズミの言う友情が利己的なものでしかないと見透かすスズメは、人間たちの物語を説いて聞かせる。スズメの話とは、知恵を持たぬがゆえに一方的に搾取され続けるハンスが、仕舞いには命まで奪われてしまうという内容で、ハンスの友達を名乗る粉屋は、体よく友情にかこつけてはハンスを働かせ利益を得ている。粉屋の言い分は屁理屈じみたものだが、知恵を持たないハンスには支配的ともいえる強制力を持たらしている。ハンスは粉屋の言葉を有難がって聞き入れて従い、手帳に書き留めて毎晩繰り返して読むなど洗脳にも似た効果を生んでいる。
ネズミと粉屋が友情と呼んでいるものが、ただ身勝手で利己的な行為であるという意味では、彼らの考え方は共通している。実際に話の途中でネズミは「粉屋がひどく気に入った」「共感がある」などと口を挟むよう、粉屋を気にかけている。しかしネズミと粉屋が同じ生き方や有り方を体現しているかというと、彼らの身の上はまるで似ていない。ネズミは「結婚したいとも思わん」と述べ、アヒルから「頑固な独身者」呼ばわりされているのに対し、粉屋は妻も子もおり裕福な家庭を営んでいるのだ。
ここに人間と、他の動物たちとの相違が認められる。動物界では家庭を持つアヒルが愛の必要性を唱えているのに対して、人間が家庭を育むためには物質的に富む必要があり、そのためには他者から奪っていくので愛からは遠ざかっていく。動物界の頑固ネズミは、「わたしに忠実であってほしい」と、ただ漠然と望んでいるだけに過ぎないが、世故に長けた人間は他者を犠牲にしてまで貪欲に物や時間や生命を掠め取っていく。人間社会で奉仕を続けるハンスは一方的に搾取され続けるだけで富も家庭も築くことはできない。ハンスの死因となったのも粉屋の息子の命を救ったためであった。
粉屋以外の人間にも冷たい目は注がれている。「ハンスには友達が大勢いた」「金持の粉屋が~何一つお礼の品を返さないのを変に思うことがあった」「誰も彼もハンスの葬式に出た」と書かれていながら、最後まで助けてくれる者が現れなかったことや、使い走りさせられたハンスが途中で泥棒に会う危惧を抱いているなど、人間界は自衛が必要とされる厳しい世界であることが窺われる。カンテラを持たないハンスを置いてけぼりにしていった医者も、間接的にハンスの死の原因を作っている。医者は粉屋の子を診るため悪天候のなか馬を走らせているが、金持ちの粉屋からの使いでなければ出向いていたのだろうか。人間たちの行動原理は自らの利益を求めることに徹底されているように見える。
一方でまだ人間的な環境に身を置いていない粉屋の子どもだけがハンスを思いやる献身を見せているが、ハンスがたびたび小さいと呼ばれているのも、彼が子どもや動物のように未成熟なままであることを意味している。
スズメから話の教訓を問われても、ネズミは何の感想も述べられずにいる。必要以上の強欲さとは人間特有の習性であり、ネズミは粉屋の打算的な手口に理解が及んでおらず、何ら影響を受けていない。むしろやたらと批評家の言葉を有難がっているところには、ハンスと同じ支配される側の性質が見られる。
教訓を唱えようとしたスズメに、アヒルは「とても危険なこと」だと忠告をする。知恵を持たぬネズミに教訓と称して主義主張を植え付けようとする行為が、思想洗脳にも似た粉屋の行為と重なってしまうからだ。おまけに最後の一行では急に語り手まで出てきて同意し、この物語をも例外なく含まれるという皮肉で閉じられる。
2.
人間がアヒルの逆立ちする姿を見ても、滑稽で馬鹿げていると捉えてしまうように、人間の処世術というのも動物たちから見れば恐らく同じ、くだらぬものにしか映らない。生きてゆくために求められる振る舞いや装いといったものは、実はつまらぬものだったりするという意味では、アヒル界も人間界も同様なのだ。そして冒頭でアヒルの子たちがまだ逆立ちにも社交界にも興味を示していないように、人間の子どもから見た大人たちの礼儀作法も、まだ理解しにくいものである。しかしアヒルの子たちも、いずれは逆立ちを覚えねばならぬように、一見くだらなく見えるそれらの心得は必要なことであり、決して軽視すべきではないと作者は子どもたちに伝えている。