1.
8章の開幕、渡辺はガラスで手のひらに深い傷を負う。これは7章の終わりで、緑の父について抱いた「やるせない気持」が彼を包んだままでいるためだ。渡辺の怪我は自分と現実との接点を、今まで通り保てなくなっていることを意味している。「あらゆる物事と自分の間にしかるべき距離を置く」、これまで彼を支えてきた規範はぐらつき、他者と距離を置いて接していた姿勢から脱却し始めている。
渡辺の変化は直後の永沢との会話にも現れる。ここでの渡辺は永沢の考えに理解を示さず、ことごとく否定的な見解を述べている。
永沢からの誘いに「また女漁りじゃないでしょうね」とけん制し、従来の付き合いに心変わりした素振りを見せる。ハツミと食事をするのに自分の介入を必要されると、キズキと同一視して永沢を見くびっている。4章では自分の力を試してみたいと話す永沢に、「ゲームみたい」だと解釈を加えていたが、この日は「身勝手」だと批判的にとる。凡人は努力しないと見下す発言には反発し、緑の父親を思い出して永沢と比較させている。
「そういうのが何か役に立つのかしら?」
「形而上的思考、数ヵ国語の習得、たとえばね」(7章)
前章で病院に向かう途中では、緑からの勉強は何に役立つのかという問いに、カラスがガラスを貯めるみたいに物事を系統的に捉えるためであり、その利点として「数か国語の習得」があるなどと得意げに語っていたのだが、テレビのスペイン語講座を見ながら女遊びと同じだと語る永沢を「内省的」だとあしらっている。
自ら例えに挙げていた「ガラス」で傷を負った出来事には、心境の変化が明示されている。
渡辺の主義を曲げた背景には緑の父親との交流がある。病室で死にかけている人物を相手にすることで、気兼ねなく接することも、心を許すことも出来る。そして人を助けようとすることが、自分自身が助けられることに繋がるのだ。
緑の父と対面すると、渡辺と緑は一度病室を出てTV室で会話をする。緑は見知らぬ渡辺の恋人について的外れな妄想を披露し、渡辺を笑わせているが、最後に痛いところを突いている。ポルノ映画館では肝心なシーンに差し掛かると、観客がつばを飲み込む音が聞こえるというのだ。
この時の会話は、阿美寮で夢遊状態にあった直子を見てつばを飲み込んだ時の記憶を、渡辺に想起させたものと考えられる。緑の父の介護のために病室に残った渡辺が、無遊状態の直子のことをあれこれと思い浮かべているのはそのためだ。緑の父が突然目を覚ますと、渡辺はあの夜に取れなかったコミュニケーションをやり直すかのよう積極的に世話をする。そして一通り介護が終わると、今度は自分自身のことについて話し始めるのだ。その内容は一方的な自分語りなのだが、親しく人と触れ合う重要さや、感情の流れに身を委ねる喜びを見出す場面となる。
以前は部屋がきれいなのは同居人が病的なほど潔癖好きだから、などと説明していたのだが、実は自分も洗濯をするのが好きらしい。演劇を専攻した理由を突撃隊に聞かれても「何でもよかった」などと答えていたくせに、本当は演劇の話をするのが楽しくて仕方がないようだ。
本心を隠して他者と距離を置いていた渡辺が、ほとんど無言の病人の前では突撃隊のように好きなことを延々としゃべり続ける。これまで彼が遠ざけてきた自分の感情を語るという魅力に浸ると、内側で抑えられていた心の働きが活性化されていく。
帰り際には「また来週も来るよ。君のお父さんにももう一度会いたいしね」などと話しており、自身のさらなる療養を求めている。再会は果たされないが、直子への手紙に「最近よく一人言を言う」ようになったと書かれ、他者との交流をさらに必要としている様子が窺われる。緑から「今考えていることが分かる?」と何度も問われても、「想像もつかない」と返していたが、「だいたい想像つくね」と少し理解を示すようになっている。
これまで凡人や俗物を見下す永沢に付き従ってきた渡辺だが、病院に向かう途中では緑が語る庶民の話に深く聞き入っている。病室では搾取を受ける側の人間が、自分の置かれた環境を宿命のように受け入れながらも、力強く生きて死んでいく姿にシンパシーを抱く。関東大震災が起きても何も感じなかったというエピソードは、心の根幹がしっかり根付いていることの表れだ。家出した娘に「どこいったって同じ」だと伝えた言葉は、決して諦めの意味ではなく、環境の良し悪しに左右されずに前進し続ける不動の心構えを示している。これは東京に来たばかりの渡辺が直子に語っていた(2章)台詞と全く同じものでもある。渡辺は新たに師とすべき男を見つけたことで、永沢の教えからは離れていくことになる。
搾取をする側の税務署員や永沢に象徴されるような、社会的に正しく・強いとされている権威よりも、個人の生きた過程を尊重する考え方へと変わっていく。そのためには隠していた個を強く打ち出していく必要があり、渡辺が自主性を持ち出すきっかけとなっている。
2.
東京で1年ぶりに再会した渡辺と直子は、二人で町を彷徨い歩くようになるが「過去の話」(3章)には触れることができず、会話は生まれない。「過去の話」とはもちろんキズキのこと以外に無い。直子は上手く言葉にして伝えられないというが、話を引き出そうとせず聞き流している渡辺こそ、対話する姿勢を持たない。殻の中に入って本心を語ろうとしなかった渡辺が直子を笑わせることが出来たのは、突撃隊の話だけだった。
突撃隊は自分が求めることを主張できる。好きなものを恥じずに語れる。人の目を気にかけない。自分の代わりに掃除してくれる。演劇が好きなこともはぐらかす渡辺には、どもりながら地図を好きだと言える突撃隊が内心では魅力的に映っているのだ。渡辺は自分に必要な性質を突撃隊の中に感じ取っているからこそ、ラジオ体操をめぐる争いでは、突撃隊の主張を言い負かすことが出来ない。
渡辺が周囲を真似て部屋にヌード写真を貼ると、突撃隊は好きじゃないと言って剥がす。すると渡辺も同意する。渡辺が演劇で学ぶ作家名を上げると、突撃隊はシェイクスピア以外知らないと言う。すると渡辺も認める。突撃隊は渡辺の装いを次々と剥がしていく。
渡辺は突撃隊の奇行を言いふらかして寮生からの同情を買っているが、実際は寮の先輩を殴りつけて問題を起こしている渡辺の方が協調性に欠けており、突撃隊との共存によって生かされている。右翼が運営する寮の胡散臭さが気になっているのも、右翼だと思われている突撃隊と共にいれば寮内では都合がいい。突撃隊が熱を出して直子とのコンサートに行けなくなるが、「招待券で良かったよ」と言われると、無料の券を口実に彼女を誘った狡さを言い当てられた気がして頭痛を起こしている。
突撃隊は渡辺の半身やパロディーのような存在であり、渡辺は突撃隊を語ることで間接的に自分自身のことを直子に語っている。直子が突撃隊の話を喜んで聞き、誕生日の最後の会話で「その人に会ってみたい」「一度でいいから」と伝えたのは、渡辺と本心からの交流を望んでいたからだ。
「そういうときはどうするの?」
「レイコさんに抱いてもらうの」と直子は言った。「レイコさんを起こして、彼女のベッドにもぐりこんで、抱きしめてもらうの」(6章)
阿美寮で無遊状態にあった直子は無意識のうちに渡辺に救いを求めている。直子が服を脱ぐ際の「虫が脱皮するときのよう」「粒子の粗い影はまるで静かな湖面をうつろう水紋のよう」といった描写は、3章で突撃隊から貰った蛍を彷彿とさせる。
この日直子は東京では話せなかったキズキとの関係性や性経験を赤裸々に告白したのだが、渡辺は3人で過ごした見舞いの話を振ったのみで、終始キズキの影を暴いていたのは直子一人だけだった。渡辺は直子と再会する前に、ソファーに横たわりながら、キズキと過ごした昔の出来事を「次から次へと」思い出していたにもかかわらず、それらの思い出は隠しているのだ。「ワタナベ君のことをもっと知りたい」と聞かれても「普通の人間だよ」と答えるだけで、自分については何も話そうとしない。話題を振られても相変わらず突撃隊の話に頼ろうとしている。
直子が髪どめだけ付けているのは、耳が見える(2,3章)ようにするためで、渡辺が本音を聞かせてくれるのを待っている。素顔を隠したままの渡辺は「手をのばして」も蛍に触れられなかったように、直子の心に触れることはできない。
緑の父から信頼を得ると、二人で同じ食べ物を分かちあい、頼まれごとを引き受ける。作中では親しい話をする前に食事をとる描写が挟まれるが、渡辺いわく食べ物が美味い時は「生きている証」だという。キュウリを食べた後に娘を頼まれるのは、隣の奥さんが渡辺を彼氏と間違えていたのを聞いていたせいだろうか。信頼を受けた渡辺も死にゆく病人に好感を抱いている。緑の父はここで正しいコミュニケーションの取り方を学ばせ、助ける方にも助けられる方にも、素顔で向き合い本音で話せる信頼関係が必要であることを伝授して、物語の主人公を導いている。