主人公の成長について(2) 「ノルウェイの森」村上春樹

1.

まずいことになってきたなと僕は思った。時々酒が入ると永沢さんは意地がわるくなることがあるのだ。そして今夜の彼の意地のわるさは僕に向けられたものではなく、ハツミさんに向けられたものだった。(8章)

食事の席で起きた出来事について、語り手は論点をずらして書いているが、ここでは渡辺と一緒に女漁りを続けたい永沢と、それを止めさせたいハツミとが、渡辺を巡って争っている。数日前の寮での会話で、永沢は自分の影響下から渡辺が離れつつあることを察しており、実際は酒が入る前から父親の女遊びの例を持ち出して、渡辺を引き留めにかかっている。

「あたり前でしょう。そんなことしたら大変よ。ちゃんとバージンなんだから」とハツミさんが言った。(8章)

ハツミが下級生の子を渡辺に紹介しようとするのが、二人の間で繰り返されている「永遠の話題」だという。下級生の子がバージンだと説明されていることに、ハツミの紹介の意図が読み取れる。異性と肉体でしか繋がりを持てずにいる渡辺に、ハツミは心を通わせることの大切さを知ってもらいたいのだ。
永沢と女あさりを繰り返している渡辺に、ハツミは4人でダブルデートをしようと誘う。同じダブルデートでも、永沢の誘いとハツミの誘いとでは趣旨が全く異なっている。肉体ではなく心の交流を勧めるハツミ相手となると、永沢との女あさりのような付き合い方は通用しなくなる。そのため永沢派の渡辺は、ハツミの誘いをかわし続けている。

この紹介話に永沢は横やりを入れ、肉体関係の話を持ち込むことでハツミの邪魔をする。さらには過去の女漁りの体験談を結び付けて、渡辺を自分と同種に分類しようとする。肉体と心を隔てた永沢の考え方にハツミは反論し、二人の言い争いへと発展していく。

永沢は物事を知的に捉えようとするが、ハツミは感情的に捉えようとする。永沢による理論的分析と、ハツミの感情的主張とが争い合いながら、渡辺の心の中でも二つの性質によるせめぎ合い、葛藤が行われている。
永沢とハツミは相反する性質を持っているが故に惹かれ合っている。また自分に欠けた性質を対立する相手から補い合うかのように組み合わさり、反駁し合う。ここで二人は各々の主義主張を唱え、渡辺はそれを料理を食べながら吸収している。最後はハツミが感情的な言動に訴えて、場の空気ごとぶち壊すことで、永沢の理論的思考から渡辺を引き離している。

ハツミは「私は傷ついてる」「鼠は恋をしない」と、感情をもとに永沢の考え方を否定していく。永沢は傷つくことすら軽減できると主張するも、ハツミに気圧されると平静さを欠いていき、一人称が「僕」になってしまっている。
永沢の主張が同意を得られず、「これまであなたの女遊びに真剣に怒ったことが無い」というハツミを怒らせているのは、永沢が人間的な感情を認めようとはしないためだ。

永沢さんが僕を好んだのは、僕が彼に対してちっとも敬服も感心もしなかったせいなのだ。(3章)
「自分と他人とをきりはなしてものを考えることができる。俺がワタナベを好きなのはそういうところだよ」(8章)

永沢が渡辺とだけ付き合っているのは、渡辺が「あらゆる物事としかるべき距離」を置いて接し、個人的な感情を挟んで他者を見ていないためだ。渡辺は永沢を見ても、世の中にはそういうエリートがいるのだと対象化して位置づけてしまう。阿美寮で唯一親しい男だとして永沢のことを説明したときも、「好きというんじゃない」(6章)と個人的な感情については否定している。渡辺は直子に対してさえ、好きだと言ったことは一度も無い。
永沢も渡辺も、自分の好みや感情を交えずに他者を捉えようとしている点で共通する。生物実験で用いられるネズミで人を例えようとしたり、システムやゲームという言葉が頻出するように、人付き合いに心を切り離してパターンのように理解しようとする。

「集団討論とか面接だとかね。女の子口説くのと変わりゃしない」(4章)
「ルールがひとつわかったら、あとはいくつやったってみんな同じなんだよ。ほら女と一緒だよ」(8章)
「あんなの女遊びとも言えないよ。ただのゲームだ」(8章)

だがそうした受け答えの仕方は、永沢が進む出世コースや女漁りの機会においては役に立つが、寮内では恐れられた存在でいるように、気心の知れた信頼関係を築くことはできない。
永沢もハツミの前で怖じ気づいて「僕」と言ってしまう弱さを見せたり、冗談めいて渡辺にハツミを引き受けてほしいと語るなど、恋人の幸せを願ったり尊重する人間らしい面も持っていたのだ。渡辺と交換した女についても「美人じゃない方が良かった」(10章)と後に明かすように、きちんと内面も見ている。そんな永沢の奥底に入り込むことができる存在がハツミであり、二人は互いに生き方を変えていくことができる関係にあった。そして永沢はハツミに救いを求める気持ちを持っていながらも、感情を切り離して、巨大な社会の中で冷徹に力を発揮して生きていく。

人付き合いについてのメカニズムを習得すべく、永沢に付き添い、女漁りを繰り返している渡辺だが、3章の時点で既にハツミからダブルデートの誘いを受けても頑なに断り続けている。打ち解けた人間関係や恋愛などは、感情抜きで体系化するなど不可能であることに、うすうす気づいてもいるのだ。
永沢についても、「その心は孤独に陰鬱な泥沼の底でのたうっていた」「この男はこの男なりの地獄を抱えて生きている」と見通しているように、いくら肉体だけの関係を繰り返していても、二人の男は心まで満たされることはない。

「じゃあ私が誰かにきちんと私を理解してほしいと望むのは間違ったことなの? たとえばあなたに?」
「まともな人間はそれを恋と呼ぶ。もし君が俺を理解したいと思うのならね。俺のシステムは他の人間の生き方のシステムとはずいぶん違うんだよ。」(8章 ハツミと永沢)
「私を理解して、それでどうなるの?」
「趣味と言えば言えなくもないね。一般的に頭のまともな人はそういうのを好意とか愛情という名前で呼ぶけれど、君が趣味って呼びたいんならそう呼べばいい。」(6章 直子と渡辺)

恋や愛情といった心の動きを認めようとしない永沢は、いよいよハツミに怒鳴られてしまうが、6章で直子に似たようなことを言っていた渡辺も、このとき同時に痛い思いを味わっている。二人とも恋人からの問いには直接答えようとせず、言い換えたり、捉え方が違うなどと説明してはぐらかしている。感情を交えず、心を通わせられない彼らは、相手の気持ちに応えることもできない。

2.
食後にハツミをタクシーで送ろうとした永沢には、何とか引き分けに持ち込みたい気持ちがあったように見えるが、ハツミは渡辺を引き連れて鬱憤を晴らそうとする。二人で町に出て酒を飲んでも会話は生まれず、憂さは晴れずにいるが、ハツミがビリヤード場へ行くことを提案し、そこでようやく親密さが戻る。ハツミがビリヤードに誘ったのは、祖父や兄との思い出が詰まっているためであり、ハツミの性質が家族との温かい交流によって養われたことが垣間見える。ビリヤードを通じて渡辺はハツミの兄の代役をしているわけだが、ハツミもまた渡辺の精神的な姉の役割を担っている。

「僕にもあなたみたいなお姉さんがいたらよかったなと突然思ったんです。」(8章)

作中できょうだいは支え合ったり、補い合うような関係性として書かれている。
小林姉妹は二人とも「性格はずいぶん違う」(9章)というが、緑は幾度も「私たち」と呼んで姉と自分をセットで扱ったり、親戚からの欺瞞攻撃には二人で毒を吐いて発散しあう。緑の姉を一度も見たことがない渡辺が、「君たちならやれそうな気がする」と、姉妹の信頼感を認める台詞もある。
姉がキウイと間違えてキュウリを買ってきたことに、緑は「なんで病人が生のキウリをかじるのよ」と文句を言っているが、病人は緑が頼んでいたフルーツとゼリーは食べず、キュウリを食べて事はうまく運ぶ。昼食が運ばれてきても、病人はフルーツだけ食べていない。姉は病人がフルーツは食べないと気づいていたからこそ、キュウリを買ってきているのであり、妹の考えが及ばないことにも気が回るので、姉妹で連係プレーしたような形になっている。

直子の姉は「自分は誰にも相談しない」で「一人で片付けちゃう」(6章)優等生だったというが、沈み込んで部屋に閉じこもるようになっていく。そんな時でも直子を部屋に呼んでは話を聞き、忠告も与えてくれたというのだ。両親は姉の自殺の原因を「血筋」のせいにして片づけてしまうほど、子への理解も交流も無かった一家で、姉は一人で悩みや怒りを抱え込んだまま死んでいった。直子とは歳が6つも離れていたために、不満を吐き出し合える関係が築かれなかったことが小林姉妹とは対照的にある。

一人っ子の渡辺は自分にもハツミのような姉がいたら協調することの大切さを学べていたのではないかと思い描き、感情を分かち合えるきょうだいの重要性を強く実感している。

「結婚して、好きな人に毎晩抱かれて、子どもを産めればそれでいいのよ」(8章)

この章でハツミは全てを包み込むような陽に重ねられたり、お見合いおばさんを名乗ったり、理想の主婦像を語るなど、女性性というよりは母性的な面が強調されている。ハツミ自ら「馬鹿で古風な」と呼び、渡辺からは「少年期の憧憬」などと過去形で扱われるこうした価値観は、その後のハツミの死に象徴されるように時代とともに失われていく。
しかし永沢や渡辺のように極端に心を孤立化させていく男たちは、物事と感情を切り離して考えようとすればするほど、母性が持つ根源的な包容力や、安らぎの力に激しい渇望を覚えていく。これが永沢が渇きと呼ぶものの意味であり、酔うと女の子に意地悪く当たる(3章)というのも、その子の温かさに揺さぶられてしまうと、いじめ抜こうとでもしない限り気が鎮まらないためだ。同じように渡辺も、ハツミに「温もりが欲しくなるんです」と吐露している。永沢はハツミを捨てて渇きの中を生きていくが、渡辺は依存し合う関係の必要さを認めて、ハツミを喜ばせている。

渡辺はハツミに永沢と別れるよう意見するが聞き入れられない。ここでも渡辺はシステムの違いを用いてハツミを説得しているが、理屈では説明つかない感情の存在を最後には認めている。

3.

彼女と一緒にいると僕は人生を一段階上にひっぱりあげられたような気がした。(8章)
でも僕は一ゲーム終えて店内の自動販売機でペプシコーラを買って飲むまで、キズキのことを思い出しもしませんでした。(8章)

こうした成長の様子は直子への手紙の中でも記されている。これまでビリヤードはキズキの死と関連付けられ、渡辺にとっての「最後の親密な光景」(4章)とされていた。唯一の友人であったキズキを失ってから、「自分の気持を正直に語ることのできる相手を失って」(3章)しまったと心を閉ざしていた渡辺だが、ハツミとのビリヤードにおいてはキズキのことを思い出しもしなかったと述べている。ハツミとのビリヤードを通じて信頼が築かれながら、これまで兄弟や分身的存在だったキズキが支え合える姉のイメージへと代わられたことで、成熟した自己像を見出した場面となる。

彼女のしゃべり方にはどことなく角があった。直子は僕に対してなんとなく腹を立てているように見えた(2章)

キズキの葬式の後、喫茶店で会った直子が渡辺に腹を立てているのは、キズキと過ごした最後の日についてひた隠しにされたせいだ。高校時代から阿美寮に至るまで話せずにいたキズキとの最後の日を、渡辺は手紙の中で直子に打ち明けられるようになっている。

「ほらね。やっぱり砂糖もクリームも入れないでしょ」
「ただ単に甘いものが好きじゃないだけだよ」と僕は我慢強く説明した。(4章)

渡辺は緑に「甘いものが好きじゃない」と説明したり、阿美寮でココアを出されそうになると断ったりしているが、5章で直子から届いた長い手紙を読み終わると、自動販売機でコーラを買ってきて部屋で飲んでいる。7章でも直子に手紙を出すと、寮から離れた公園で一人コーラを飲む。渡辺は本当は甘いコーラが好きで、一人でいる時は飲んでいるのだが、人前では自分を装ってコーヒー等をブラックで飲んでいるのだ。それがハツミとの交流によって素顔を曝け出していった渡辺は、公衆の面前でうっかりペプシのボタンを押してしまい、自分が心を開いて他者と接していたことに気づくのだ。

「私たちみんなもう少しシックな大学に行くのよ。わかるでしょ?」(3章 直子)
「どうしてもシックになれないの。ときどき冗談でやるけど身につかないの」(4章 緑)
ハツミさんの身につけた全てのものと同じように、その両手はシックで上品で高価そうだった(8章)
「スマートでシックで、ミッドナイト・ブルーのワンピースと金のイヤリングがよく似合って、ビリヤードが上手なお姉さんがね」(8章)

永沢とハツミは、知性的と感情的、孤立と協調、男性的と女性的などといった、相対する性質を象徴する人物像として描かれている。これら二つの性質は作中でドイツとフランスの記号にもあてがわれている。渡辺とキズキは高校時代にシック(フランス語)な大学に行くようなエリートの女の子たちとのダブルデートに失敗する。シックな大学に入れずに弾かれてしまった直子は、フランス語を学んだり、ami(フランス語)寮に入って他者との繋がり方を模索している。緑は「シックになれない」と応えるように、女らしい振る舞いをしたがらない。
ドイツ的な永沢の考え方から離れだしていた渡辺は、二人の言い争いの最中にフランス料理をうまいうまいと言って平らげながら、ハツミの言い分を取り入れている。するとその後はシックな女性を肯定できるようになっている。

渡辺とハツミはメイン料理にすずきを頼んでいるが、「水」は無意識の状態を表し、「魚」料理には意識的な装いを遠ざける効果がある。魚フライ(6章)を食べながら都市の喧騒を恋しく感じたり、伊東とししゃも(10章)を食べると緑に電話したくなったり、フランス文学を借りて読みだす。漁師から貰った寿司(11章)には善意を深く感じるなど、他の場面においても同様の働きがみられる。

この日ハツミは永沢のセオリーを打ち負かして渡辺を連れ出すと、痛む手のひらの傷を手当てしてくれる。怪我をした直後には「痛みはなかった」はずの手が、ビリヤードをしながら痛んでいくのは、心の古傷が開いていくせいだ。閉ざしていた心を開いて、手をのばすと傷ついてしまう。戸惑う渡辺にハツミはきょうだいのような親密な支え合いを通じながら、傷の癒し方を実践してみせている。

※直子の父親も弟が突然自殺している。これは親が解決しなかった問題が子世代でも繰り返されてしまっているので、「血筋のせい」というのはある意味では正しい。

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