1.
31章でエスタは病に陥り盲目となる。と思いきや、次のエスタの語りである35章が始まってすぐに目は開く。ただし後遺症により顔は変わってしまう。この一時的な盲目や、顔の変化は何を意味しているのか。
エスタはジョーを通じて病をうつされているが、このジョーはエスタの父ホードン大尉に可愛がられていた子供であり、大尉の死後にはエスタの母であるデッドロック夫人と干渉したせいで、職を失うばかりか熱病にかかってしまう。
エスタの父が救えなかった、そしてエスタの母のせいで苦難を被らされるジョーは、エスタにとって分身や精神的弟のような存在にあたる。エスタが病気のジョーと接触し、その救済に失敗してしまうと、まるで自分を救えなかったかのように転落を辿っていく。
ジョーは道路の泥を落とす仕事をして宿代を得ていたが、デッドロック夫人の案内をした報酬として受け取った1ポンド(16章)から巡査に目を付けられ、持ち場であった道路からは追い立てられてしまう(19章)。掃除夫のジョーがいなくなった通りは、「黒い泥と、くさった水がたまり、実に酷い悪臭と光景に満ち」、熱病が流行したせいで、リズも病にかかる(22章)。通りに泥が溜まった様子は挿絵にも描かれている。持ち場も収入も失ったジョーは、リズとジェニーの元に厄介になっていたが、タルキングホーンの家に証人として呼ばれると、今度は口封じのためにバケットがロンドンから追い出してしまう(22章)。
デッドロック夫人がジョーに干渉したことから、もっと正確には「デッドロック夫人が抱えた秘密を巡って」、騒動は引き起こされていき、ジョーは居場所を失い熱病にもかかってしまうのだが、エスタはこのジョーを看病するために荒涼館に連れてくる。しかしここでもジョーはスキムポールによって屋敷を追い出され、後に死に至る。
つまりエスタは知らず知らずのうちに母親の罪をあがなう機会を与えられ、その救済に失敗してしまうのだ。母親の犠牲となり、罪を被らされた娘は、その印として呪いを受けたかのように顔が変わってしまう。
2.
教会と小屋でデッドロック夫人を見たエスタは、強烈な印象を受け、叔母と暮らしていた子供時代の記憶が蘇ってくるが、何か自分と関連のある予感を仄めかす程度にとどめている。しかし、子が死産したと聞かされていた夫人ですらエスタに娘を重ねて見ていたと語っていることから、エスタの胸中ではより強く母の印象が抱かれていたと推測される。
デッドロック夫人から母だと告げられる直前、エスタは近づいてくる夫人の表情に「子供だった頃夢にみてまでこがれた何か」、つまり母親らしい表情を認めて身動きできなくなっている。一方で、夫人から母親だと打ち明けられる場面では何ら動じている様子は無い。エスタには夫人が母であるなど、とうに察しがついていたからだ。
この時エスタが身動きできなくなるほど期待したのは母からの愛情であって、その夢にまで見ていた期待は受けられない。するとエスタは失望を隠して、母を庇うよう努めようとする。
アフリカしか見ていないジェリビー夫人の娘キャディー、礼儀作法の権化ターヴィドロップ氏の息子プリンス、慈善家パーディクル夫人の子供たちと、親の犠牲にされる子パターンが描かれてきたが、エスタも同様に母親の罪を被らされる。
デッドロック夫人はエスタと瓜二つの容姿をガッピーから指摘され、タルキングホーンからも過去の秘密を暴かれ始めていた。夫人から「私はお前の不幸な母」と告白を受けたエスタは、まず真っ先に自分の顔が変わったために危険が及ばなくなったと、母の望みを推し量る。夫人はエスタの病気を「気が狂う」ほど心配していたと話すものの、変わった顔については一言も触れてはくれない。「死ぬまで秘密を守ろう」と誓う母は、内心では娘の顔が変わって安堵していたのではないか。娘に手紙を渡しては、ガッピーに詮索を止めさせるようにと頼みもする。娘への愛情を優先してくれない母親は、ジェリビー夫人やターヴィドロップと変わりがない。
ようやく母と打ち解けられたエスタは、愛情を受けられるどころか「再び会話することはできない」とくぎを刺され、事実上母親から捨てられてしまうのだ。そしてこの先も素性を隠し続け、母が犯した罪を背負って生きるようにと告げられてしまう。この厳しい事実に直面して、なおも母想いの子であり続けるためには、エスタは本心を押し殺し、偽りの仮面を被らなければならなかった。エスタの変わり果てた顔は、子の義務を果たすために自分の望みを捨てたという象徴的な意味をもつ。
3.
闘病中に盲目となったエスタは、階段を上れずに引き返したり、自分がネックレスの一部となったと感じて外れたがる夢を見ている。目が見えないというのは、真実をみたくない、物事を知りたくないといった意味合いを持ち、迫りくる真相へのエスタの心理的不安が反映されている。自分に似た女が怪しげな騒動に巻き込まれていることを、ジョーから聞かされていたためだ。
しかしチャーリー、エイダ、ジャーンディス、リチャード、ボイソーン、ミス・フライトと、周囲から必要とされていることを実感し、感謝の気持ちを持つために、エスタの目はすぐに開く。
死の危機から脱したエスタは、子供のころ叔母から聞かされた服従と禁欲の教えを思い起こし、他者への奉仕が自分の務めであると、強い信念を持つ。次に、見舞いに来たミス・フライトから難破船におけるウッドコートの偉業を聞かされると、エスタは自分の顔が変わったことを理由にしてウッドコートへの恋を諦めようとする。しかしこの時点でエスタはまだ鏡を見てもいない。部屋の鏡はチャーリーが撤去してしまっているので、顔を確認するのは次章でボイソーンの屋敷に行ってからのことだ。
エスタがウッドコートへの愛を捨てさるのは、顔が変わったことが理由ではない。この場においてエスタは二次的な表現で言い逃れたに過ぎず、実際は実母からも叔母からも、不要な扱いを受けてきた子は、自分自身の幸せを追うことを止めようと心に誓いなおしたためなのだ。エスタには母との対峙を前にして、自分に課せられた子としての義務が改めて蘇っている。
エスタはあらゆる望みを持たないと諦めることで、失望や怒りの感情からも逃れることができている。そのため次章で再会した母から捨てられても、失望する素振りも見せずに母の言い分に堪えている。母には「感謝し、迎え入れるのが私の義務」だと服従を示し、恨みも抱かずに、共に秘密を抱えて生きようとする。
母を許し、自分からは何も求めないと誓ったエスタだが、本心を完全に押し隠せたわけではない。「何とかいおうと努めた」という言い直しのかたちや、心中で愛情への未練を述べたりなど、本心を隠した痕跡が作中に残されている。別れた後にも、これまで決して近づかなかったというチェズニーウォルドに部屋の明かりを見に行く。
エスタは母に愛されたいという望みも、恋人への愛情も諦め、自分自身の幸せを覆い隠す。自分を捨てた母を寛大に、というか淡々と許しているものの、その影では自分の意志を殺すような多大な犠牲を払わなければならなかった。醜くなったエスタの顔とは、本心を隠して被ったエスタの仮面にほかならない。エスタは母の犠牲となることを受け入れ、自分の望みを持たぬようにと思い改めているのだ。
人のために尽くすと誓い、母と呪われた約束を結んだエスタは、これまで父親代わりと呼び続けてきたジャーンディスから「荒涼館の主婦となってほしい」との申し出を受けると、「感謝」するためにという理由で受け取ることを選ぶ。それと同時に「何かを永久に失ってしまった」気がして涙を流しているが、鏡で顔を確認して自分を戒めると、ウッドコートからもらった花は燃やしてしまう。
※病は初めチャーリーにうつされ、次に看病をしたエスタへと及んでいる。31章でチャーリーはジョーを「エマとわたしが死んだらトムもああなった」と弟と重ねて語り、エスタは病に倒れたチャーリーを「ちいさな妹」と呼ぶなど、きょうだいのような繋がりが辿られながら、病もうつされていく。無関係そうなチャーリーが間に挟まれているのは、病の苦しみという手段を用いることで、親を失った子の苦しみが表現されているためだ。
エスタはチャーリーの顔が病気で変わる可能性を案じていたが、実際にはエスタの顔が変わってしまうことになる。チャーリーは病気の間、家族への愛情を頼りに回復しているが、「母親は恥」だと教えられてきたエスタはひとり苦しむことになるからだ。子を守るはずである親の愛情の有無が、病後の3人の命運を分けている。