まん中とまわりの意味(1) ノルウェイの森/村上春樹

1.

学生服は桐の薄い箱を持っている。中野学校はソニーのポータブル・テープレコーダーを掲げている。中野学校がテープレコーダーを掲揚台の足もとに置く。学生服が桐の箱をあける。箱のなかにはきちんと折り畳まれた国旗が入っている。学生服が中野学校にうやうやしく旗をさしだす。中野学校がロープに旗をつける。学生服がテープレコーダーのスイッチを押す。
君が代。
そして旗がするするとポールを上っていく。(2章)

寮の国旗掲揚では二人の男が共同して作業することで旗が上がっている。渡辺は入寮したての頃、息の合ったコンビの活躍ぶりを感心して眺め、意味ありげな記述をしている。というのも、この光景には協調性や信頼関係といった、物語のテーマであり、渡辺にとっての重要な課題が、コミカルにだが象徴的に描かれているからだ。

「あなたにしっかりとくっついているとね、私ちっとも怖くないの。どんな悪いものも暗いものも私を誘おうとはしないのよ」
「じゃあ話は簡単だ。ずっとこうしてりゃいいんじゃないか」と僕は言った。
「それ――本気で言ってるの?」(1章)

直子が渡辺に望んでいるのは、助ける側と助けられる側の対等な関係性だ。渡辺は一方的に相手を助けることしか頭に無いのだが、直子は相手も自分を必要としてくれることを望んでいる。
直子が伝えようとした言葉の意味が理解できない渡辺は、この後「肩の力を抜けばいい」などと適当な応え方をして直子を怒らせている。直子はここで怒りという形にしろ、自分に沸き起こった感情を率直に表現して投げかけることで、相手の感情を引き出そうとしているのだが、渡辺はただ黙りこくって歩き続け、直子に謝らせてしまうのだ。

「ただ私、ちょっと考えてたのよ。共同生活をするのってどんなだろうって。そしてそれはつまり…」(2章)

東京で再会した後の二人の会話では、渡辺と突撃隊のコンビネーションを聞いた直子が、自分も共同生活におけるパートナーのような存在を持てるかどうかを考えている。しかし素直すぎる突撃隊と、素直になれない渡辺は相性ピッタリだが、偶然できた組み合わせにすぎず、二人とも自己中心的な強情さで他者を寄せ付けようとはしない。そのため二人とも女とのデートになると上手くいかなくなる。

そして彼は僕に「あ、あのさ、ワタナベ君さ、お、女の子とさ、どんな話をするの、いつも?」と質問した。僕がなんと答えたかは覚えていないが、いずれにせよ彼は質問する相手を完全に間違えていた。(3章)

渡辺は「君のことをきちんと理解する」(1章)などと直子に言い聞かせているが、自分のことは何も語ろうとせず、相手に理解させるつもりは全くないのだ。本心を見せず、対等な関係を結ぼうとしない渡辺に、直子は何度も撥ねつけられている。

2.
「まん中」というキーワードは、彼らの心の世界を表すための重要な意味を持っている。「まん中」に立っているものが彼らを支えている精神的支柱となっており、作中での使われ方を追っていくと、渡辺の心境の変化を追うことが出来るようになっている。

国旗掲揚台は中庭のまん中にあって、どの寮棟の窓からも見えるようになっていた。(2章)
「うちのお父さん、関東大震災のとき東京のどまん中にいて地震のあったことすら気がつかなかったのよ」(7章)
草原のまん中で僕を射精へと導いてくれた直子の指の感触は僕の中に何よりも鮮明に残っていた。(10章)
東京のどまん中にこんなに人気のない荒涼とした場所があるなんて僕には驚きだった。(10章)
僕はどこでもない場所のまん中から緑を呼びつづけていた。(11章)

寮の庭の「まん中」に立つ国旗とは、社会に放り込まれた渡辺が従わねばならない規則を意味している。作中で旗は「日の丸」などとも呼ばれるよう、国家的な体制や権威が象徴されている。こうした社会構造や因習といったものは、個人の思惑とは無縁に存在するものだ。あまりに規則に準じるばかりでいては、個人の自発性というものは奪われてしまう。
国旗が上げ下げされる様子を見た渡辺は、夜にも働く人はいるのに国旗が降ろされるのは「不公平である」と、さっそく疑問を抱いているが、そうした世の中の仕組みを深く考えるよりも、自分を社会の慣習に合わせようとするのだ。このような考え方や接し方は、「対等じゃない」(1章)とか「公正ではない」(5章)などと気になって仕方がない直子とは対照的なものだ。

まん中にすごく太い柱が建っていてね、そこのまわりをぐるぐるまわりながら追いかけっこしているのよ」(2章)

直子の心の「まん中」にも、庭の国旗に似た柱のようなものが建っているという。しかしどのような考えを支柱にするべきなのか、本人には判断できずにいる。柱のまわりをぐるぐる追いかけっこしている様子には、社会の枠組みの中で身の置き方が分からず、自分の存在を把握できない直子の意識の弱さが表されている。自分の心の状態を意識化できず、言語でもうまく表現できないために、「筋合いじゃない」(2章)などという言葉を引いて渡辺を驚かせたりと、人との適切な距離感や接し方が掴めていない。

本質的には親切で公平な男だった。三人でいると彼は直子に対しても僕に対しても同じように公平に話しかけ、冗談を言い、誰かがつまらない思いをしないようにと気を配っていた。(2章)

直子が「不公平」な世の中を受容できないのは、キズキが望んでいた「公平」な理想郷に縛られてしまっているためだ。阿美寮では医者から、世の中の「歪みを認めて受け入れること」(5章)が出来ずにいると、問題を的確に指摘されている。5章の手紙で阿美寮は「平等」だと記されているが、あくまで「外界と遮断された」特殊な場所に過ぎない。
直子は死者を追悼することもできなければ、死者の意を継いで生きることの困難さにも直面している。渡辺と再会し、付き合うようになるが、キズキについては話に出せず、過去の傷は癒えないままでいる。

「私はあなたのように自分の殻の中にすっと入って何かをやりすごすということができないのです」(5章)

一方で渡辺の処世術というのも、ただ殻を閉じて「物事としかるべき距離」を置き、傍観的な姿勢をとっているだけなので、同じくキズキについては話出せず、他者と深い関係は築けずにいる。
次第に直子は並んで歩いてくれるようになったり、人を愛したことはないか聞いたりと、控えめなアプローチをしてくれるようになるが、渡辺は距離を縮めようとしてはくれない。
直子に話しかける言葉が見つからない渡辺は、「彼女の言葉探し病が僕の方に移った」などと記しているが、直子の抱えている問題とは、渡辺にとっての問題でもあるのだ。二人の仲は進展しないまま月日だけが流れていき、次第に渡辺自身も空虚さを感じ始めていく。

僕はときどき空中に漂う光の粒子に向けて手を伸ばしてみたが、その指先は何にも触れなかった。(3章)

クリスマスに直子は手袋をプレゼントして渡辺の手をポケットから出そうとするが、その手が触れられることはない。
渡辺はレコードを包装しただけなのに、直子の手編みの手袋の欠点は目ざとく取り上げる。自分の欠点を自覚せずに相手に投げかける行為は終始行われる。
突撃隊が熱を出してコンサートに行けなくなるが、恋人との中間イベントに挑もうとしている割には、渡辺の態度は何も変わっていないのだから、どっちみち仲が進展するはずもない。
寮の先輩と揉め事を起こしたり、単位を落としたりと、日常生活にも亀裂が生じ始め、渡辺には世の中の仕組みをそのまま受け取るということが難しくなってきている。

僕にしても直子にしても本当は十八と十九のあいだを行ったり来たりしている方が正しいんじゃないかという気がした。(3章)
「私、二十歳になる準備なんて全然できてないのよ」(3章)

二人ともキズキについては話に出せず、過去を清算できないまま直子の二十歳の誕生日、つまり成人の儀式が行われてしまう。直子は一晩中、過去の話を「克明に」喋り続けるも、話は途切れ途切れとなって繋がりを持たない。話がつながらないのは直子の心の中で片付いていないキズキや姉の記憶に触れられないためだ。

僕はレコードをかけ、それが終ると針を上げて、次のレコードをかけた。ひととおり全部かけてしまうと、また最初のレコードをかけた。レコードは全部で六枚くらいしかなく、サイクルの最初は「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」で、最後はビル・エヴァンスの「ワルツ・フォー・デビー」だった。(3章)

話の受け取り手になれない渡辺は、その間「六枚くらい」のレコードを同じサイクルでかけ続けている。サイクルはサージェントペパー(1967年)から始まり、ワルツフォーデビイ(1961年)で終わる。渡辺がプレゼントしたディアハート(1965年)も、間に含まれていることになる。
これはキズキの死んだ1967年から、直子の生理が始まりキズキとキスをした1961年までの出来事の、記憶の再生を試みていることを意味している。1961年には直子の姉も自殺しており、直子は姉の死を目撃してから、肉体と意識が別々に動き出す体験をし始めている。
思春期が始まり、キズキと恋仲になり、姉やキズキが自殺した、6年の間に起きたこれらの出来事を心の中に収められずにいるために、直子は話を繋げ合わせることが出来ない。

それでも彼女が失ってしまったものことを考えると残念だなという気がしないでもなかった。あの思春期の少女独特の、それ自体がどんどん一人歩きしてしまうような身勝手な美しさというべきものはもう彼女には二度と戻ってこないのだ。(6章)

後に阿美寮で渡辺が「思春期の少女独特」の美しさが失われたと惜しんでいるように、この頃の直子はまだ思春期を抜けきれない少女のような世界に留まったままでいる。そして肉体だけでしか異性と関係を持つすべを知らなかった渡辺を通じて、外部の世界と結びつこうとすると、ますます深い混乱に陥ってしまう。
11章で直子は渡辺との性体験を「本当に素晴らしい」ものだったとレイコに告白している。肉体では上手く結びつけていても、この後直子が去ってしまうのは、それだけ心の繋がりが断たれていたことを意味している。この物語では、体と心のどちらかが欠けていては正しい関係は築かれない。

直子を失った渡辺は手紙を出すが、文面は相変わらず自己の都合に満ちている。大学解体に賛成したり、慣れない力仕事をしたりと自棄になりだす。いよいよ突撃隊とまで喧嘩したり、女あさりで会った相手すらうざったく感じているのは、社会との適応が難しくなっており、共同体から弾かれる寸前で相当な危機にある。

そんな中、直子から届いた手紙によって渡辺は引き戻される。手紙の中で直子は自分を受け入れてくれなかった渡辺も世の中も責めようとはしない。渡辺は問題を外の世界にぶつけるばかりであったが、直子は問題をすべて自分で引き受けようとしていた。直子が自分以上の孤独や哀しみを抱え込んでいたことを知り、1年も付き合っていながら何の支えにもなれず、責任すら押し付けられなかった自分の無力さや、理解の浅さに、ようやく気がつくことになる。

彼女のアパートの近くにはきれいな用水が流れていて、時々我々はそのあたりを散歩した。(3章)

突撃隊は「女の子にあげるといいよ」と言って蛍をくれた。渡辺が自分の心の問題を直子と共有することができていれば、二人で川に蛍を流して触れ合えていたのだろうか。既に直子は去っているというずれが侘しさを残している。
渡辺は一人で寮の屋上に上がって蛍を離すと、昔見たはずの蛍を小さな川とともに思い出す。記憶の中の燃え立つような光とは打って変わって、弱い光を放っている蛍は「失われた時間をとり戻そうとする」かのような、「行き場を失った魂」に見えている。渡辺が魂と向き合うこの場面は、後にリテイクされることになる。

虫が大嫌いだった突撃隊が、庭(=心)で見つけてきた蛍をくれるのは、彼の心からの善意を表すものであり、渡辺の方もそれに「ありがとう」と素直に応えられるようになっている。渡辺は直子と突撃隊を失った引き換えに、自分が取り戻さなければならない感情を知ると、社会へと戻っていくことができている。

3.

車のヘッドライトが鮮やかな光の川となって、街から街へと流れていた。さまざまな音が混じりあったやわらかなうなりが、まるで雲みたいにぼおっと街の上に浮かんでいた。
瓶の底で螢はかすかに光っていた。(3章)
「お姉さんって虫も大嫌いなの。お姉さんの好きなのはちゃらちゃらした車に乗って湘南あたりをドライブすることなの」(4章)

寮の屋上から眺める街では、車のライトが川を作り出しているように見えている。そのすぐ後には対比されるように弱い光を放っている蛍が置かれている。渡辺は古い記憶の中で、かつて蛍は燃えるような光を放っていたことを思い起こしている。
4章の緑の台詞でも、同じように虫と車が対照的に扱われている。車という人口的な光に対して、古い自然や感情などは失われていくかのように、ぼやけた光として描かれている。

車の排気ガスのせいで、まるでかすみがかったみたいに何もかもがぼんやりと薄汚れていた。(4章)

まだ古い家並みが残っているという大塚も、「車」の排気ガスに覆われており都会化に取り込まれつつある。「あんまり車好きじゃない」(4章)と話す緑だが、反対に姉の方は「ちゃらちゃらした車」が好きだという。ここでは補い合うようにペアを組み、協調性を取り合う姉妹の関係性も示されている。

さらに都市と隔絶した阿美寮に辿り着くには、「車」がすれ違うのも困難なほど道が細くなっていく。阿美寮まで辿り着くには車(バス)から降りねばならず、道のりは「川」に沿っている。阿美寮は「自然に充ちて」(5章)いて、人々は「虫のこともよく知って」(5章)いたりと、まだ自然と共存し、古い感情が残る場所となっている。

エリートの人間はスポーツカー(6,7章)に例えられ、キズキは時代の流れに合流できずに車中で死んでしまう。永沢は「やるべきことをやるのが紳士」(4章)だと、資本主義社会の真っただ中で、自身がシステムの一部のように何もかも飲み込んでいき、「馬鹿で古風な」(8章)家庭的温かさを求めたハツミは命を絶つことになる。近代主義に取り込まれながら、失われていく心の繋がりが物語の根底には流れている。

※直子がいなくなった後、渡辺は女あさりで出会った相手がホテルで「ありとあらゆる質問」をしてくるのを面倒くさがっている(3章)が、直子からの手紙を受け取った後では、同じく初対面で色々な質問をしてくる緑に対話する姿勢を見せる(4章)よう変化している。

※6章の阿美寮では再びワルツフォーデビイが再生され、ワインを飲んだり、ろうそくが立てられたりと、3章の誕生日の光景が再現されながら、直子は改めてキズキとの過去の記憶を蘇らせることに成功する。渡辺はキズキとの思い出を隠し続けたまま別れ、8章の手紙でようやく直子に伝えられるようになる。手紙を書きながらカインドオブブルーのレコードをかけているので、ここでもビルエヴァンスのピアノが流れていることになる。

※直子はサージェントペパーのレコードを持っていたり、阿美寮でもビートルズのレコードを借りたりしているが、渡辺の方はとくにビートルズを好むような描写は無い。4章で部屋にジムモリソンのポスターを貼っていたり、7章で歌詞を引き合いに出したりしているドアーズが好きなようだ。
また直子が読んでいる本にも渡辺は興味を示さない。6章では直子にフィツジェラルドを貸していたことが明らかになるが、3章ではフィツジェラルドを「読んでもいいと思う人すらいなかった」などと記しており、読書の趣味も全く合わなかったようだ。

「『カインド・オブ・ブルー』をオートリピートで何度も聴きながら雨の中庭の風景をぼんやりと眺めているくらいしかやることがないのです」(8章)

しかし直子が持っているビルエヴァンスのレコード(3章)と、渡辺が部屋に貼ったマイルスデイヴィスのポスター(4章)、この二人の演奏者が共演する「カインドオブブルー」のレコードで、二人の趣味が重なり合う。渡辺はこのレコードを聴きながら、これまで隠していたキズキとの最後の日について手紙に記し、初めて直子と死者を共有しようとする。

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