まん中とまわりの意味(2) ノルウェイの森/村上春樹

1.
作中では「まん中」と同様に、「まわり」という言葉も象徴的な意味を持って使われている。まわりばかりを気にしている者には、まん中に置くべき精神的支柱を立てることはできない。

僕はまわりの世界の中に、自分の位置をはっきりと定めることができなかった。(2章 渡辺)
まん中にすごく太い柱が建っていてね、そこのまわりをぐるぐるとまわりながら追いかけっこしているのよ。」(2章 直子)
まわりの友だちはたっぷりおこずかいもらって素敵なドレス靴やら買ってるっていうのによ。可哀そうだと思うでしょ?」(4章 緑)

7章で病院に向かう途中、緑が大学のフォーククラブで資本論を読まされ「何もわかりません」と応えたところ、馬鹿扱いされた話をする。緑は適当に言葉を振り回すインチキな奴らを、「自分が何かを分かってないことを人に知られるのが怖くってしょうがなくてビクビクして暮らして」いると糾弾している。そして話を聞いている渡辺はというと、実際に資本論を「他の大抵の人と同じように」読んでいるという・・・。

「あなた、『資本論』って読んだことある?」と緑が訊いた。
「あるよ。もちろん全部は読んでないけど。他の大抵の人と同じように」(7章)

緑のように馬鹿扱いされてしまわぬように、他者が振りかざす知識に負けてしまわぬようにと、まわりの目を気にして「他の大抵の人と同じように」資本論を読んでいた渡辺には、緑の批判がどこか自分と重なるものと感じていながらも、痛快に聞こえている。そしてインチキな奴らや、「まわり」の世界に振り回されてしまっている自分自身を、なんだか馬鹿馬鹿しいものと思い始めているのだ。

「うちのお父さん、関東大震災のとき東京のどまん中にいて地震のあったことすら気がつかなかったのよ」(7章)

「まん中」にある国旗に象徴されるような規則や権威に順応して、「まわり」の世界に身を置いてきた渡辺は、緑の父との交流で新たな考え方を見出すようになる。自分が社会や環境のどこに配置されているかと気にしたり、上や下の格差をいちいち考えながら生きていくのではなく、あくまで「まん中」にいるのは自分であり、社会的な評価に定義されない固有の価値観を打ち立てる必要性を学ぶ。

震災が起きて家も崩れ、家族は「柱」にしがみついている中、ひとり平然としていたという緑の父は、どんな不遇な環境に陥っても動じない強靭な心構えを持っている。かといって彼は環境が良くなったとしても、いちいち浮かれたり喜んだりもしない。自分の店が小林書店だろうが紀伊国屋だろうが、前に進み続けるだけなのだ。家出した娘に「どこへ行っても同じ」だと伝えた言葉は、どこへ行っても同じように進み続けるだけという意味であり、価値基準がまわりの評価や環境の変化に揺さぶらないことを示している。自分をまん中に置いている彼は、自分自身が主人であるために、まわりと比べて考えることもない。

(別記事「主人公の成長について(1)」)
※搾取をする側の税務署員や永沢に象徴されるような、社会的に正しく・強いとされている権威よりも、個人の生きた過程を尊重する考え方へと変わっていく。そのためには隠していた個を強く打ち出していく必要があり、渡辺が自主性を持ち始めるきっかけとなっている。

緑は空想の中で父親をウルグアイに移住させているが、向こうで成功してるかどうかはともかく、本人はなんだか楽しそうにやっている。これは父の実像を正しく捉えているといえる。
そんな彼の住まいである小林書店は、町の「まん中」に位置していて、「まわり」の家より高く堂々と建っているのだ。

小さな商店街があり、まん中あたりに小林書店という看板が見えた。(4章)
物干し場はまわりの家の屋根よりもひときわ高くなっていて、近所が一望に見渡せた。(4章)

シックな学校に通うようなエリートの女の子たちとデートしても不釣り合いに感じたりと、立場や格差を気にかけながら生きてきた渡辺は、緑の父との交流を境に自分を強く押し出して、まん中に置くことの重要性を学ぶ。すると、これまで規則や権威を意味するものとして「まん中」に位置していたはずの国旗が、好きな演劇の衣装に見え出したり、時計代わりに用いだすなど、なんだか思考が突撃隊に似てくるのだ。

日の丸の旗は風がないせいで元老院議員のトーガの裾みたいにくしゃっとポールに絡みついたままぴくりとも動かなかった。(8章)
毎朝六時に「君が代」を目覚まし時計がわりにして彼は起床した。あのこれみよがしの仰々しい国旗掲揚式もまるっきり役に立たないというわけではないのだ。(2章)
中庭のポールには旗が上がっていなかった。それで多分これは夕方の六時十五分なのだろうと僕は見当をつけた。国旗掲揚もなかなか役に立つものだ。(9章)

本心を隠しながら他者と接していた渡辺は、逆に本心を見せすぎる突撃隊とうまい具合にペアを組んでいたが、渡辺が突撃隊に似てくるのは、抑え込まれていた自分の半面を取り戻しつつあることを意味している。

(別記事「主人公の成長について(1)」)
※突撃隊は渡辺の半身やパロディーのような存在であり、渡辺は突撃隊を語ることで間接的に自分自身のことを直子に語っている。

渡辺が自分を「まん中」に置くようになると、手紙を読んだ直子も「まわり」の世界への見方や意識が変わりだしてくる。

「ワタナベ君の書いてきてくれるあなたのまわりの世界の出来事は私をとてもホッとさせてくれます」(9章)

また緑の父が登場する前から、「まわり」を気にしない人物は登場している。

並んでベンチに座った二人の修道尼だけがきちんと黒い冬の制服を身にまとっていて、彼女たちのまわりにだけは夏の光もまだ届いていないように思えるのだが、それでも二人は満ち足りた顔つきで日なたでの会話を楽しんでいた。(2章)
見るからに右翼学生という格好だったし、だからこそまわりの連中も突撃隊と呼んでいたわけだが本当のことを言えば彼は政治に対しては百パーセント無関心だった。(2章)

2.

まわりもそれを認めてくれたしね。けっこうちやほやされて育ったのよ」
「何をやってもうまく行くし、うまく行かなきゃまわりが手をまわしてくれるし」
「ピアノが上手いってだけでまわりが気をつかってくれる」(6章)

緑の父の考え方とは対照的に、環境や周囲の評価に左右されてばかりいて、全く前に進めずにいるケースがレイコの話に表れている。上手くいくのはまわりに支えられているおかげなのだが、上手くいかないと今度はまわりのせいにするのだ。

4つの頃からピアノが全てで、親や周囲からの期待に応え続けてきたレイコは、ピアノが生活の中心であり、ピアノ以外には外の世界との繋がりを持たない。大切な人付き合いについては何も学ばず、心の繋がりに欠けた問題は身体的な欠損として、つまり小指の不通となって表面化される。
ピアニストを挫折すると今度はピアノを教える側に回り、ピアノを通じて人と関係を持つようになるが、後ろ向きで、周囲の人々をピアノの才能で比較して見ることしかできずにいる。

「もし私と寝たいのなら寝ていいわよ」
「いいわ、結婚しましょうって言ったわ。だってそう言うしかないものね」(6章)

やがてレイコの前には弱さや甘えを一方的に受け入れてくれるような理想的な男性が登場する。レイコは過去の精神病などの何もかもを「全部正直に説明した」とパートナーに打ち明けるが、自分からは抱いてほしいとも、結婚したいとも主張することはなく、あくまで受動的な態度で結婚する。この夫婦は片側からの強い働きかけで結ばれているだけで、信頼関係は脆いものでしかない。

結婚後しばらく経つと再びピアノを弾き始める。今度は「誰のためにでもなく、自分のために」、つまり自分の内側に目を向けるようになると、レイコの前には失われた思春期を思い起こさせるような一人の少女が現れる。レイコいわく、この少女はまわりの大人を嘘や美貌で従わせているというのだが、昔のレイコもただピアノが上手いというだけでまわりが手をまわしてくれていたのであり、正しい人間関係が築かれていない点では同じような問題を抱えている。
人を従わせる少女はかつての自分の再来のようであるが、今度のレイコは従わされる側に位置している。反転された立場で、かつての自分と対峙する機会が巡ってくるのだ。かつてピアノの才能でまわりを従わせていたレイコは、今では少女の嘘や美貌を称賛し、従わされる立場に変わっている。
思春期に同性との交友が不十分なまま異性との結婚に進展してしまったレイコは、思春期を補完させてくれるような少女に激しく惹かれると、親密な感情を抱いていく。

少女は周囲が抱く「美しく頭のいい女の子」のイメージを担わされ、自分に正直に生きられず、本心を通わせられる相手は誰もいない。役割を演じさせられ続け、人との付き合い方も分からずにいる少女は、自分の悩みを理解してくれる相手を欲している。まわりを喜ばせるためにピアノばかり弾かされていたレイコと、まわりを喜ばせるため作り話までさせられている少女とは、強い力で引かれ合う。

少女の訴えたがっている問題とは、レイコ自身が過去に克服できなかった問題でもある。少女が抱えている問題を共有することは、過去の自分の問題と向き合う機会となる。少女の捉えどころの無さとは、レイコ自身が自覚せぬまま奥底に埋もれてしまっている本心に通じている。

しかしレイコは少女と付き合いを重ねるようになっても、ピアノ以外の関わりは持とうとも、考えようともしない。レイコは少女のピアノが上達しない理由をあれこれと推察しているが、ピアノばかり上達したところで自分と同じ失敗を繰り返すことには気づいてもいない。

「でも人間だれしも欠点というのはあるじゃない? それに私は一介のピアノの教師にすぎないわけだし、そんなのどうだっていいといえばいいことでしょ、人間性だとか正確だとか? きちんと練習してくれさえすれば私としてはそれでオーケーじゃない。それに私、その子のことをけっこう好きでもあったのよ、本当のところ。」(6章)

少女の違和感についても、「人間性だとか性格」は「どうだっていい」などと割り切って考えるばかりで、訴えを受け取ろうとしない。少女から自分のことを「ものすごく知りたがった」と干渉を受けても、何も語らず心は閉ざし続ける。しかもそうした素顔が隠された状態での付き合いを、「楽しくやった」とか「好きでもあった」などと語る有様で、一向に問題視していない。自分に正直に向き合えないレイコには、少女の内面を見ることはできない。

断たれた心の繋がりは、ここでも身体的な問題となって、つまり肉体の結びつきとして表出する。閉ざされた心の代わりに体が反応を起こすのだが、それでもレイコは少女をぶって追い返してしまう。レイコの振るった暴力とは、心の境界を越えようとしてきた少女を肉体的にも精神的にも自分から分離させて、問題の共有を拒んだことを意味している。

レイコにはその後も少女の感触が残り続け、これは夫と肉体関係をもっても解消されない。さらにレイコの中では少女の存在が1か月も残り続けていたというのに問題を先送りし続ける。近所で噂が流され、事態があらわになった後で、ようやく夫に説明するが、それでもレイコは夫に隠し立てをする。

「私、あの日に起こったことを全部彼に話したの。レズビアンのようなことをしかけられたんだ、それで打ったんだって。もちろん感じたことまでは言わなかったわよ、それはちょっと具合わるいわよ、いくらなんでも。」
「でも夫は動きたがらなかったわ。あの人、事の重大さにまだ気づいてなかったのね」

この時点で夫婦の信頼関係は損なわれている。未だにレイコが少女に惹かれ続けていることが夫婦間の危機であり、パートナーと関係を再構築する必要に迫られていながら真実を共有しないのだ。
レイコは自分に都合の悪い部分は「言わなかった」「具合わるい」などと理由をつけて隠し立てしているが、それでいて本人に嘘をついている自覚は全くない。あくまで自分は正直なつもりで、発病した原因も夫の理解が足りなかったためと責任をなすりつけている。しかし真実を知らされなかった夫が「事の重大さ」とやらに気づくはずもないのだ。

人は自分のことをなかなか正直に話せないものであり、とくにそれが自分の弱さに触れなければならない場合となると、何も隠し立てせず打ち明けるのは並大抵の苦労ではない。心の傷を曝け出すには、自尊心が損なわれるような屈辱にも甘んじる態度を取らねばならない。逆に正しく出来事を振り返って相手に話せるようであれば、客観的な視点から自分を眺める余裕を得たということであり、苦難はだいぶ克服されていると言える。

レイコは少女の他愛ない嘘の数々を上げ連ねて非難することで、不誠実な自分自身の嘘については裏に隠している。渡辺から同性愛者なのかと問われてイエスかノーかも応えられないのは、問題から避け続けてきて自分が何者であるか分からない状態をその通り表している。「彼は九九パーセント」「あの女の子一人のせい」「自分が被害者」などと、問題をまわりのせいにする発言を繰り返し、自分自身が抱える問題と向き合おうとはしないのだ。

レイコのこのような姿勢は阿美寮を出た後も変わっていない。さっそく乗ってきた新幹線や車内販売に文句を言い、渡辺にいさめられても居直り、旭川を全く知らないくせに行く前からケチをつける。「まあ他に行くあてもないし」などと受動的な態度も変わっていない。渡辺に「怖くって気が狂いそう」と打ち明けても、すぐに「気が狂いそうって素敵じゃない?」などと付け加えて自分の本心をごまかしてしまう。
6章では少女との出会いを落とし穴に例えて話していたが、旭川に対しても全く同じことを言っている。既に何かあったら環境のせい、まわりのせいにするつもりなのだ。

「まるで何かの罠か落とし穴みたいにそれが私をじっとそこで待っていたのよ。」(6章)
「行き先が旭川じゃちょっと浮かばれないわよ。あそこなんだか作りそこねた落とし穴みたいなところじゃない?」(11章)

不完全ながらも少女と交流を交わし、対人関係が把握されていったことで、自分は教えることが得意だと気づきだすなど、レイコには新たな可能性が開かれかけていた。その時の体験が今のレイコを作り、阿美寮や旭川で講師として生きていくための糧となっている。レイコのバッハを聞いて少女は惹き付けられ、レイコも少女の弾いたバッハを熱意を持って語っている。レイコが阿美寮で最初に弾いたのも、終章で最後に弾くのも思い出のバッハだった。レイコには少女との問題と向き合うことでしか何も始められないし、終わりもない。

3.

「お医者よ。宮田先生っていうの」と直子が言った。
「でもあの人この近所じゃ一番頭おかしいわよ。賭けてもいいけど」とレイコさんが言った。(6章)

阿美寮で食事をしていると宮田という医師が出てきて、「胃液の分泌」やら「脳の大きさ」やら「指の長さ」についての話をする。心の病院にいるはずの医師が、体の構造を気にかけているのは、心の問題と体の問題とが密接にかかわり合っているためだ。レイコが体の反応について話していながら、実は心の問題を表現しているように、宮田医師は体の構造に通じることで心の問題を探ろうとしている。
他にもレイコが「ここの冬は長くて辛い」と説明した後に、宮田医師は「冬はいい」と全く逆のことを言ったりする。辛い冬の姿も体験しないことには阿美寮を正確に知ることはできないように、体の問題についても心と関連して見ないことには正しい意味を知ることはできない。レイコと宮田医師の二人は、真逆の位置から同じ問題を挟み合うように見ている関係性にあたる。そのためレイコからは最も遠い位置にいる宮田医師が、「一番頭がおかしい」人に映っている。

宮田医師は渡辺に冬にも阿美寮に来るようにと誘いをかけることで、物事を多方面から見ることの重要性を説いている。寒いところが嫌と言っていたレイコはもっと寒い旭川へと旅立つことになるが、ここは彼女に必要とされる視点が、阿美寮以上に備わった場所でもある。

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