まん中とまわりの意味(5) ノルウェイの森/村上春樹

1.

かつて僕と直子がキズキという死者を共有していたように、今僕とレイコさんは直子という死者を共有しているのだ。(11章)

終章では渡辺のセリフ通り、「死者、死者の恋人、死者の友人」という三者の関係性が再現されている。ただし役者は変わっている。「キズキ・直子・渡辺」の過去の構図が、「直子・渡辺・レイコ」の新たな配役で再演されるのだ。

死者役:キズキ→直子。
恋人役:直子→渡辺。直子は肉体がキズキを拒絶し、渡辺は他の女に惹かれて、死者役からは離れていった。
親友役:渡辺→レイコ。死者役が自殺する直前、二人でビリヤードをしたり阿美寮で過ごすなどして交友している。

親友役の二人には、警察からの取り調べに対し同じ感想を抱くという共通点もある。

高校の授業を抜けて玉撞きに行くような人間なら自殺したってそれほどの不思議はないと彼は思っているようだった。(2章)
「それにあの人たち、精神病の患者なんだから自殺くらいするだろうって思ってるのよ」(11章)

2.

「今日は負けたくなかったんだよ」とキズキは満足そうに笑いながら言った。
彼はその夜、自宅のガレージの中で死んだ。(2章)

「今日は負けたくなかった」という台詞からして、キズキは渡辺との勝負の結果に生死の選択を委ねている。結果的にキズキは勝利して、親友の渡辺には自分の弱さを見せないまま、勝ち逃げするように死んでいった。実は弱さを抱え込んでいたキズキの本性を、渡辺は阿美寮で直子から暴露される(6章)まで知ることはなかった。
キズキは最後まで渡辺には都合のいい部分を見せ続けていただけであり、渡辺はキズキの半面しか知らなかったことになる。つまりこの二人は互いに唯一の友人であると自認し合っていながら、心から打ち解けた関係など築けてはいなかったのだ。渡辺は直子と肉体関係を結ぶまで、「ずっとキズキと直子が寝ていたと思っていた」(3章)と思い込んでいたりと、キズキから悩みを相談される仲ですらなかった。

「僕と君が三つのときからずっと一緒にいて僕のことを知りすぎているせいだ、だから何が欠点で何が長所か見わけがつかなくていろんなものをごたまぜにしてるんだ」(6章)

キズキは自分の弱さすら肯定してくれてしまう恋人の代わりに、親友である渡辺に真実の姿を曝け出そうとしていた。もしもこの日ビリヤードで渡辺が勝利していたなら、キズキは自分の限界を晒すことになり、渡辺に自分の弱さや迷いを打ち明け、素顔を見せた関係性を築くきっかけを得られていた、そして外の世界へも踏み出していくきっかけを得られていたのではないか。

でも、たぶん何かの偶然によるものだと思うのだけれど、そのショットは百パーセントぴったりと決まって、緑のフェルトの上で白いボールと赤いボールが音も立てないくらいそっとぶつかりあって、それが結局最終得点になったわけです。今でもありありと思いだせるくらい美しく印象的なショットでした。(8章)

渡辺は勝敗がほんの僅差、「何かの偶然」で決まったものだと記憶している。しかし最後までキズキの弱さを見抜けずに、キズキを英雄視していた渡辺の未熟さが、キズキに勝利を譲っている。渡辺が1ゲーム取り、キズキが「急に真剣になって」とか「冗談ひとつ言わなかった」などと本気になると、渡辺は相手のペースにすっかり押されてしまうからだ。キズキは残り3ゲーム全てを取って勝っている。キズキの弱い面など知らなかった渡辺は、キズキが本気を出した時点で勝とうというつもりも、真っ向から勝負を受ける気もなかったのではないか。自分自身の内面に踏み込んでもらおうと勝負を挑んだキズキを、親友であったはずの渡辺は受け止めようとしなかったのだ。

渡辺は最後まで直子と素顔で向き合うことが出来なかった。それは渡辺がキズキの正しい姿とは向き合おうとしなかったせいだ。直子は阿美寮でキズキの弱さを暴露したが、渡辺はキズキを英雄のまま思い出に留めている。二人で「キズキという死者を共有」(11章)し合えなかった二人が、本心から触れ合えることはなかった。

3.

「彼女こんなことも言ったわ。二人でここを出られて、一緒に暮らすことができたらいいでしょうねって」
「私と二人でどこに住もうだの、どんなことしようだのといったことを話したの」(11章)

直子は大阪での治療に挑む前に、阿美寮に一泊しに帰ってくる。レイコはこの日直子が元気そうに見えたのは、始めから死ぬことを決めていたからなどと渡辺に語っている。ところがその死ぬつもりだったという直子は、退院してレイコと二人で暮らそうなどと将来の展望を持ち掛けたりしている。

直子は大阪の病院へ移るとすぐ快方へと向かっていき、阿美寮に泊まりに戻ってきた頃にはすっかり元気を見せている。渡辺のことは「あの人」や「彼」としか呼ばずに、これまで貰った手紙を庭(=心)で焼き捨て、「生まれ変わる」と話したりと、人生の再生に挑む意志も見せている。またレイコには服を残していくが、渡辺には遺品を何も残していない。
大阪で直子が快方に向かったのは、これまで築いていた渡辺との関係性をすっぱり心から切り捨てたためなのだ。直子は多大な痛みを受け入れる決断をしたことで、一時的に心の平穏を取り戻していたに過ぎない。

「あの子はくわしいことは絶対に言わなかったの、恥ずかしがって。それを急にべらべらしゃべり出すんだもの私だって驚くわよ」(11章)

6章で直子はキズキとの性経験を赤裸々に告白することで、渡辺に自分の全てを曝け出して見せていた。そしてあの時と同じように、これまで誰にも話したことが無かったという渡辺との性体験をレイコに打ち明けることで、自分の全てを見せている。
直子は異性との肉体関係は「一度きり」のものと振り返り、「もう誰にも私の中に入ってほしくないだけ」と語っている。直子が渡辺に棄てられた痛みを克服するためには、今後一切の異性との結びつきを断つほどの犠牲を払わなければならなかった。

「もし彼女がいなかったら、私はたぶんここの生活に耐えられなかったと思います」(9章 直子)
「私は直子のいないあの場所に残っていることに耐えられなかった」(11章 レイコ)

そんな直子が今後外の世界に出ていくために頼れる相手は、親友のレイコ以外にはいなかった。直子は治療に挑む前に阿美寮へ戻ってレイコに退寮する提案を持ち掛け、将来の支えや展望となるような言葉をかけてくれることを望んでいる。

「あなたみたいに若くてきれいな女の子は、男の人に抱かれて幸せに生きなきゃいけないわよ。」(11章)

ところがレイコは、直子が求めていた応えと全くかけ離れた返答をしている。異性との交流を完全に諦めたと話す直子に、レイコはここでも世間体、まわりの世界を気にして男と生きることが幸せだと言い聞かせている。レイコは阿美寮を出る話も、女二人で暮らすなどの提案も聞き流し、実際的な行動に移すことなど考えもしない。
レイコは渡辺の部屋に来ると真っ先に大家に叔母だと説明しに行き、そのために抜かりなく手土産まで用意している。二十歳の子と二人でいることが、まわりにどう見られるのかが気になって仕方がないのだ。

泣き出す直子の頭をなでたり、濡れた下着を脱がしてやるうちに、レイコには直子が「十三か十四の女の子みたい」に見えてきている。少女をぶった後に「蛾でも食べたみたい」(6章)と覚えていた感覚は、「虫の音がやたら大きく聞こえていた」(11章)と蘇ってきたりと、少女と深い結びつきを持ちかけていた過去の光景が繰り返されている。
しかし渡辺への話を中断してまで「妹みたいなものだから」と弁解を入れるなど、未だにまわりの目や偏見に敏感で、怯えたままでいる。直子から抱いてほしいと頼まれると「汗がくっつかないようにして」と混じり合いを拒む。

阿美寮を出ようと直子が持ち掛けた提案は、直子だけではなくレイコ自身にとっての問題でもあった。この場面で直子と少女の姿が重なるように描かれているのは、かつて少女と対面して自分自身の問題を暴かれかけた時のように、現在の自分の問題に直面していることを意味している。しかし弱さや恐れを奥底に抑え込んだまま、問題と向き合うつもりもないレイコには、直子の訴えを受け取ることはできない。

4.
このように「死者役」のキズキと直子は、どちらも「恋人」に捨てられた後に、「親友」と関係を結ぼうとして拒まれている。死に至るまでに二度救いを求めていたのだ。しかし親友役は関係の変化を望まず、維持し続けることを選んだために、人格の発展に至る道を歩むことはなかった。

そして渡辺はショットが決まったのは偶然だと記憶に留めたり、レイコは直子が初めから死ぬつもりだったと決めつけているように、二人とも自分の行いが死者の生死を分けていたことには気付いてもいない。警察も自覚を持てない彼らから聞き出せることなど何も無いために、素行や病状を理由に「自殺くらいする」と下してしまうほかは無かった。

今の直子に僕が他の女の子を好きになってしまったなんて言えるわけがなかった。(10章)
「今はとりあえずあの子には黙っていることにしましょう」(10章)

直子を庇っているつもりでいる渡辺とレイコだが、直子は大阪の病院に移されるとすぐに快方に向かっている。何も知らされなかった直子は、一人で恋人に棄てられた痛みを克服していたのだ。
渡辺とレイコは直子を対等に扱おうとしなかったばかりか、痛みや喪失と直面していた直子の強さにも、自分たちの弱さにも気がつけない。人生の大事な場面で問題を避けてきた二人は、直子の死の原因も理解できないまま心の中に残されてしまう。

考えてみれば直子と二人で東京の街を歩いていたとき、僕はこれと全く同じ思いをしたのだ。(11章)

レイコと二人で歩きながら、直子と東京を歩いた頃を思い出したり、キズキの年齢について考えたりと、3章と同様の光景が繰り返され、恋人役と親友役は再び死者を共有しようとしている。

「突撃隊のおかげですね。彼が僕を清潔好きにしちゃったから」
「あなたの母方の伯母で京都から来たってことにしとくから、ちゃんと話を合わせといてよ」

部屋に着くと、渡辺は部屋が清潔好きなのを再び突撃隊のせいにする。レイコは叔母のふりをして大家に挨拶する。こうして二人とも偽りの仮面を被ってから、素顔を隠した状態で、語り合い、慰め合って、結びつき、感情を共有し合う。渡辺は正しい記憶を掘り起こしたり、自分の犯した誤りを引き受けることなど望んでおらず、レイコの疑問を退ける。

「不思議なのよ」「変な子だと思わない?」(レイコ)
「本当に何もなかったのかもしれませんよ」(渡辺)

レイコが直子から感じていた「不思議」とか「変」な違和感も、渡辺へと話されることで片づけられていく。深い不安を拭い去れない二人の慰め合いや心の結びつきは、体の繋がりによっても表現されている。

二人が行う葬式では、曲を弾くたびマッチ棒が並べられていく。

「みんなトイレの汚物入れにそういうの捨てるでしょ、女子校だから。それを用務員のおじいさんが集めてまわって焼却炉で焼くの。それがあのなの」(4章)
三軒か四軒向うからもうもうと黒煙が上がり、微風にのって大通りの方に流れていた。(4章)

4章で渡辺が緑の不満を聞いてあげていると、苦しみはやわらげられ、解消された感情は焼却炉や火事から「煙」となって上がっていく。また「火の元」が見えずにいるのは、渡辺には原因の根本までは理解できないでいる様子が表されている。10章では緑が渡辺に煙草の「煙」を吹きかけてから仲直りしているが、これは渡辺にとってうれしい煙だといえる。

火は情熱、また真実を照らす光としての意味がある。しかし渡辺とレイコの葬式では、マッチに火はつけられず、煙も上がることは無い。二人は自分たちの感情は見せずに直子を追悼しているということだろうか。
直子の誕生日(3章)では渡辺と直子はキズキを共有できず、心の交流は失敗していたが、渡辺とレイコは共同して死者を解釈し、問題の幕引きを図っている。

レイコを送り出した渡辺は、緑に「新しく君と始めたい」と電話をかけるが、無自覚に本心を偽る自分に気づけない限りは、再び同じような問題が繰り返されるだけであり、信頼関係など築いていけるはずもない。レイコと夫や、渡辺と直子のような破綻が生じるだけであり、緑と確かめ合った「まん中」からは弾かれ立ち位置を見失っている。

僕は受話器を持ったまま顔を上げ、電話ボックスのまわりをぐるりと見まわしてみた。(11章)
僕はどこでもない場所のまん中から緑を呼びつづけていた。(11章)

「あらゆる物事としかるべき距離を置く」。この言葉通り、渡辺は相手を観察・理解しようとするばかりで、自分の感情を相手と直接触れ合わせようとはしない。渡辺の態度は「ガラス」を1枚挟んで相手と向き合っているようだと作中では例えられている。自分は安全な立場に身を置くことで、平静を保ち、悩み苦しむことから逃れているのだ。心を開かずに接していては、信頼感が生まれたり、深い関係性に進展するはずもない。
このガラスは緑の父の見舞いで、自分に素直で自然な態度を味わったことによって一度は破られ、そしてハツミや緑との交流へと進展していった。しかし最終的に渡辺は、ガラスの向こう側へと戻ってしまっているのだ。

「系統的なものの考え方を身につける必要があるんだ。鴉が木のほらにガラスを貯めるみたいに」(7章)

その週の半ばに僕は手のひらをガラスの先で深く切ってしまった。(8章)

緑は長いあいだ電話の向うで黙っていた。まるで世界中の細かい雨が世界中の芝生に降っているようなそんな沈黙がつづいた。僕はそのあいだガラス窓にずっと額を押しつけて目を閉じていた。(11章)

5.

僕は飛行機で行った方が早いし楽ですよと勧めたのだが、レイコさんは汽車で行くと主張した。(11章)

旭川までの交通手段として、渡辺は飛行機を提唱し、レイコは汽車(と船)を選んでいる。またレイコの元夫の職業は飛行機整備士でもあった。そして渡辺は1章の冒頭で、巨大な飛行機に乗ってドイツに着いている。
母なる大地や海など土着的な感情面を表している「地」と、知的で高い精神性を表す「空」との選択に、二人の行く末が暗示されている。飛行機は都会化や近代主義の象徴として描かれてきた車の上位種のようなものでもある。ドイツに旅立った永沢と同じように、結局は渡辺も思想や理論にかまけて感情や情緒すらシステム化して捉えようとする道を歩んでいく。

十一月の冷ややかなが大地を暗く染め、雨合羽を着た整備士たちや、のっぺりとした空港ビルの上に立ったや、BMWの広告板やそんな何もかも…(1章)

1章の冒頭で37歳の渡辺は、機内で流れたノルウェーの森のBGMを聞いて激しく混乱してしまう。その日に限って普段より彼を「揺り動かした」という理由は、曲が流れる前から「雨」、「雨合羽」、「旗」、「車」などといった、渡辺が通り過ぎてきた重要なモチーフが目についていたせいではないか。飛行機の着地後に「禁煙のサインが消え」ているのも、煙を上げるように感情を発散させるよう応じているようだ。彼には追悼したはずの死者への違和感が再び蘇っている。

「私のことを覚えていてほしいの。私が存在し、こうしてあなたのとなりにいたことをずっと覚えていてくれる?」(1章)
「私たちいつも洋服とりかえっこしてたのよ。というか殆ど二人で共有してたようなものね」(11章)

直子は自分の言葉の意味が理解できずにいる渡辺に、ただ自分が存在したことを覚えていてほしいと虚しい願いをかける。レイコには二人で「共有」していた服を残している。服はペルソナとして、外的な姿、見かけなどを表す意味合いを持っている。緑色の服が似合わないという緑は周囲と折り合えない困難さに直面していたり、セーターを笑われた突撃隊は彼の態度が周囲に受け入れられない様子を示している。直子が自分の服をレイコに着てもらいたがっているのは、自分が見せていた態度や発言の意味をよく考えなおしてもらいたがっているのだ。直子は最後まで共有されることの無かった本心に、いつか二人が気づいてくれることを願っている。

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