まん中とまわりの意味(4) ノルウェイの森/村上春樹

1.

僕にできることはレイコさんに全てをうちあけた正直な手紙を書くことだった。(10章)

渡辺は緑と愛情を実感し合った後でも、相変わらず直子のことだけは話せずにいる。そして保留にしていた直子についても「愛していた」などと強調するが、問題を直子にも緑にも伝えずに、レイコに手紙を出している。
そして相談を受けたレイコ本人も「あの子には黙っていることにしましょう」などと、直子には隠し事をするよう渡辺に勧めるのだ。というのも、レイコ自身もこれまで自分の問題とは向き合わずに生きてきたためだ。レイコは「物事を深刻にとりすぎるのはいけない」などと、キズキ葬式後(2章)の渡辺と全く同じ考えを手紙に書き、苦悩から逃れるよう助言をしたり、「放っておいても物事は流れるべき方向に流れる」「流れに身を委ねなさい」などと、問題との直面を避けるよう提案する。

「私、あの日に起こったことを全部彼に話したの。レズビアンのようなことをしかけられたんだ、それで打ったんだって。もちろん感じたことまでは言わなかったわよ。それはちょっと具合わるいわよ、いくらなんでも」(6章 レイコ)
「私あなたといるときの方がだんだん楽しくなってきたのよ、彼と一緒にいるときより。そういうのって、いくらなんでも不自然だし、具合わるいと思わない?」「それで彼のところに行って正直に相談したの。」(10章 緑)

パートナー以外に惹かれ始めた「具合わるい」事実に直面すると、レイコは少女にも夫にも本心を隠し通した挙句、関係を破綻させてしまう。緑は彼氏と渡辺の両方に正直に打ち明けて、渡辺を選んでいる。渡辺は二通りの選択を聞いていながら、レイコのように本心を隠し通す方を選んでしまう。
渡辺は内心ではレイコのそんな性格を知っていながら、相談相手に選び、助言を求めている。緑に相談すれば、直子と別れるよう迫られるだろうが、自分で別れ話を切り出す覚悟など持てないのだ。

告白が緑の側から行われ、渡辺は受動的な態度でいることも、レイコと元夫と同様の過程を辿っている。どちらのカップルもアプローチが片側から一方的に行われ、相互から結びついていないために、関係性は脆く発展も見込まれない。

他の時期ならともかく、今の直子に僕が他の女の子を好きになってしまったなんて言えるわけがなかった。(10章)

他の時期ならも何も、渡辺は一度も直子と正直に向き合ってはいない。直子の症状自体が渡辺の不誠実な引き延ばしから起こっているのだが、症状が深刻化するまで問題から逃げ続け、最後は病気を口実にして問題を隠し通そうとする。東京では直子に素顔を隠し続け(2,3章)、阿美寮では直子一人だけに語らせて別れ(6章)、緑との仲が深まったことも打ち明けない(10章)。渡辺は最後まで自分の問題を直子の問題としてすり替え続けている。

僕は僕なりに誠実に生きてきたつもりだし、誰に対しても嘘はつきませんでした。(10章)

それでも「僕は僕なりに誠実に生きてきた」などと主張している渡辺には、本心を偽っている自覚は全く無い。渡辺もレイコも自分は「誠実」とか「正直」だと思い込みながら、無自覚に隠し事を抱えている自分に気が付かないのだ。彼らは自分の心に真剣に向き合って悩もうとはせず、自覚しがたい問題を無意識へと追いやってしまう。
レイコから返事を受け取り、二人で隠し事が共有されると、臆病さや不誠実さはうやむやにされてしまい、当の本人たちに自覚されることはない。

物語の中盤に組み込まれているレイコの長い話は、こうして終盤になって渡辺の選択に深い関わりをもつことになる。レイコの話を聞かされていた渡辺は、自分がレイコとよく似た状況に置かれていることを洞察し、正しい選択をとれるか求められる。
しかし判断を迫られた渡辺は、緑でも直子でもなく、レイコと臆病さを共有し合って問題を遠ざけてしまう。レイコの手紙から直子の死まで話が飛ばされているのは、渡辺のとった選択がその後を決定づけたことを意味するものだろう。

「もし私と寝たいのなら寝ていいわよ」
「いいわ、結婚しましょうって言ったわ。だってそう言うしかないものね」(6章)
それはうまくいくかもしれないし、あまりうまくいかないかもしれない。しかし恋というのはもともとそういうものです。恋に落ちたらそれに身をまかせるのが自然というものでしょう。(10章 レイコの手紙)

運命とはどう抗っても思い通りに運ぶものではなく、税務署員には威張られるし、娘は家出をするし、妻も自分も脳腫瘍で倒れたりする。しかし困難にぶつかっていきながら、獲得したものが自分を支える支柱となり、その結果も運命として受諾することができる。渡辺やレイコのように初めから問題を避け続け、「流れに身を任せる」などと与えられる結果に従う態度でいる者には、運命は成も否も過分に圧し掛かる。
責任を負おうともしない、立ち向かおうともしない二人は精神的な自立を得ることもなく、パートナーの獲得にも失敗する。そして直子の死を追悼することも出来ないまま、二人の存在を激しく揺さぶってくる。

直子の葬式後に、渡辺が「ひとしきりの映画」を観ていることには、あくまでも傍観する側に立とうとする姿勢が表わされている。映画を観終わると、ひとり海岸を旅しに行くが、この旅も自分の内的な真実と向き合おうとしないただの逃避であり、渡辺は自分の醜い面をあらためて浮き彫りにされるだけとなる。
漁師からの問いが渡辺に自覚をもたらす機会を与えているが、嘘でごまかすためにその後に受ける思いやりにも罪悪感しか覚えない。寄ってきた犬には食べ物を与えず追い返し、「忘れることにした」(2章)はずの高校時代の恋人にした仕打ちを思い出して吐く。仕方なく東京に帰っていくも、緑と会うこともできずに上京してきたレイコを迎えに行くことになる。

3.
「ねえ、昔からそういうしゃべり方してたの?」(4章 緑)
「あなたって何かこう不思議なしゃべり方するわねえ」(6章 レイコ)

「あなたって本当に変わってるわね。冗談なんか言わないって顔して冗談言うんだもの」(4章 緑)
「あなたって真剣な顔して冗談言うからおかしいわねえ」(6章 レイコ)

「なんだかハンフリー・ボガートみたいなしゃべり方するのね」(4章 緑)
「あの『ライ麦畑』の男の子の真似してるわけじゃないわよね」(6章 レイコ)

「『戦争と平和』もないし、『性的人間』もないし、『ライ麦畑』もないの」(4章 緑)
「あの『ライ麦畑』の男の子の真似してるわけじゃないわよね」(6章 レイコ)

「なんだかハンフリー・ボガートみたいなしゃべり方するのね」(4章 緑)
「なんだか『カサブランカ』みたいな話よね」(6章 レイコ)
※カサブランカの主演がハンフリーボガード

緑はぱちんと指を鳴らした。「たしかに私、キウイって頼んだわよ」(7章 緑)
彼女は何かに気がついたというようにパチッと指を鳴らした。(6章 レイコ)

「もしあなたが自叙伝書くことになったらその時はその台詞使えるわよ」(4章 緑)
「私はギターの練習をしたり、自叙伝を書いたり」(6章 レイコ)

「それじゃ木樵女みたいだ」(4章 渡辺)
いくらか世をすねたところのある親切で腕の良い女大工みたいに見えた。(6章 渡辺)

上は緑の台詞、下はレイコの台詞で、二人とも渡辺には似たような印象を持ち、同じような表現をしている。また同じ小説や映画を引き合いに出したり、同じ仕草をしたりもする。短い髪をしていて、性格もがさつで女らしくないために、渡辺でもすぐに打ち解けられたりと、二人には多くの共通性が持たされている。
最後の「木樵(木こり)」と「大工」とは、渡辺から見た二人の印象が述べられたもので、どちらも「木材」を扱う職業に例えられている。
ビートルズの曲「norwegian wood」の邦題である「ノルウェーの森」とは実は誤訳で、「ノルウェー製の木材」が正しいという有名な説がある。レイコが木材を扱う「女大工」に例えられているのは、彼女が作中でノルウェーの森の弾き手であることとの関係性を匂わせているためだろう。

一方で緑も煙草を消す仕草が、「女木樵」みたいなどと言われている。木こりと呼ぶ少し前には、「アップルレコードのTシャツ」を着ていたり、料理をする姿が「インドの打楽器演奏者」に例えられてもいる。ノルウェーの森では打楽器ではないが、インドの楽器であるシタールが使われている。
こうして比較すると緑もノルウェーの森の弾き手の資質を持っていそうだが、緑はノルウェーの森は弾かずにオリジナルの「酷い」曲を弾いている。

ところでノルウェーの森の歌詞の中には、「norwegian wood」が二度出てくる。一度目は女が部屋を「norwegian wood」などと紹介し、二度目は最後に主人公が「norwegian wood」に(?)火をつける展開になって終わる。

「あれ阪本さんのところだわね」と緑は手すりから身をのりだすようにして言った。「阪本さんって以前建具屋さんだったの。今は店じまいして商売してはいないんだけど」(4章)

緑の酷い曲の演奏中に起きている火事では「建具屋さん」(元だが)が燃えているから、ここでは木材が燃えていることになる。そうなると緑の酷い歌はノルウェー製の「木材」の解釈通りに進行されていると言える。
一方でレイコがノルウェーの森を弾くと、直子から「深い森の中で迷っているような気になる」などと言われたり、森の中で首を吊ってしまうなど、こちらはノルウェーの「森」の解釈通りに事が進行している。

緑とレイコは同じような感性を持ち、似たような性格を与えられていながら、歌の歌詞については決定的な解釈違いがされている。意味ありげに二人に持たされている多くの共通性とは、この二人が似た者同士でありながら、実はある一点において決定的な違いをもつことを、歌のタイトルを通じて示しているためではないか。

彼氏にも渡辺にも本心を正直に打ち明けた緑と、最後まで夫にも少女にも本心を偽り続けたレイコ。そして渡辺には二人の印象が比較されていながら、無意識にどちらかの選択を迫られる場面で、「森」の方を選んでしまう。小説のタイトルになっているノルウェイの森とは、同じ歌詞(状況)から違った解釈を引き出している二人を例えているのではないか。

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