ポークパイの謎 大いなる遺産/ディケンズ

1.
脱獄した囚人に脅され、家の食料を盗み出すことになったピップ。囚人の恐怖と罪の意識とに追われ、「ものを確かめたり選んだりしている時間はない。切羽詰まっているので、何をする暇もなかった」などと差し迫る様子でありながら、食糧庫の棚に丁寧に置かれた皿に目が止まると、今度は一転して段に足をかけてのぞき込み、ポークパイを見つけている。一度は食料庫から「去ってしまうところだった」との供述からして、既に十分な食料を確保しているはずなのだが、何故かこのポークパイを理由もなく持ち出している。
また他にブランデーを持ち出しているのも余計だ。囚人が求めたのは食料とやすりだけであって、酒などは要求されていない。そのせいか囚人はピップの持ってきた瓶について何かと訪ねている。

「壜のなかには何が入ってる、小僧?」男は言った。
「ブランデーです」(3章)

ピップは持参した瓶にブランデーを移し、減った分は代わりに水(のつもりがタール)を加えているのだが、囚人に何か飲み物を持っていきたいなら、その水でいいし、もしくは家に帰った後にがぶ飲みしている牛乳でもよかった。ブランデーを持っていく必要は全く無かった。

ピップは恐れを抱きつつ盗みを働いていながら、ポークパイとブランデーを余計に持ち出している。そしてその日の晩餐、紛失が発覚するのが他でもない、このポークパイとブランデーなのだ。それ以外の盗品については、そのまま見つからなかったか、問題に上がらなかった可能性が高い。というのも囚人が捕らえられた後の会話の内容から、ピップが持っていった食べ物とはただの「残り物」であったことが分かるからだ。

「いろんな食いもんと――残り物だ――酒を少しと、パイだ」(5章)

ピップがポークパイ以外に持ち出した食料とは、ただの残飯であった。ミンスミートについても、ミンスパイがあるために気づかれなかったと、わざわざ次章で補足されている。囚人が「若い囚人」に何も残さずに食べている様子を見たピップが、「家には、もう何もありませんから」「そのことだけは確か」と伝えたりしているのも、持ち出せそうな「残り物」がこれ以上無いことを表していたのだろう。囚人と別れて家に帰ると、クリスマスのための「すばらしい食事」の数々が用意されている。盗み出せる食べ物はたくさんあったのだ。

ピップが初めから余計な持ち出しさえしなければ、盗みが見つかる心配を抱くことも、不安に怯える必要もなく、囚人の要求に応えることができた。それなのにピップは、わざわざ自分で犯行が見つかる材料を作るという矛盾した行動をとっている。ブランデーについても、ただ薄めただけならパンブルチュークに見過ごされたり、指摘されずに済んでいたかもしれないが、間違えてタールを加えてしまったことで問題に上がっている。

ポークパイの持ち出しも、タールを加えてしまった理由も、ピップの意識に上がってすらいないようだが、盗みの痕跡をみすみす残した奇妙な行動からは、内心では問題が表面化されることを見込んでいたように見える。

子供の盗み以上に問題であるのは、子供が保護者(姉)に助けを求めずに、囚人の指示に従う方を選んでしまっていることだ。ピップは盗みを「死ぬほど怖かった」と恐れていながら、「何を言おうとはねつける」(2章)姉に相談できずに、囚人の要求に応える方を選んでしまう。
その晩、砲台の音が聞こえてくると、監獄船に興味を覚えたピップは姉を質問攻めにする。この話題が膨らんでいけば囚人の存在へと繋がっていき、恐ろしい事情を打ち明ける機会が得られていたはずであった。しかしピップは姉から返答はもらえず、代わりにタンバリンのようにぶっ叩かれて寝床へと追いやられてしまうのだ。

2.

「私は赤ん坊のころから、心のなかで絶えず不正と闘っていた。片言を話しはじめた時期から、気まぐれな暴力で無理にしつけようとする姉は正しくないとわかっていた。私を手で育てたからといって、叩いたり小突いたりして育てる権利はない。そう固く信じるようになっていた。」(8章)

姉からの一方的な横暴に耐え続けてきたピップは、自分が受けてきた暴力の不当性について確信を抱いている。暴力は根深い傷を心に植えつけ、ピップの性格を「引っ込み思案」(9章)と呼ぶ暗いものにしているが、それによって全く委縮してしまったというわけではない。身を守るすべもなく、不本意な服従を余儀なくされてきたピップの心の内では、同時に反抗心が育まれてきた。クリスマスの晩餐でも、大人たちに嘲られながら何度も復讐願望を抑え込んでいる。

不必要に持ち出されたポークパイの謎は、こうした事実関係から紐解ける。ピップは囚人の要求に応えながら、無意識のうちに大人たちへの復讐を同時に果たしている。思わぬ盗みを働いたほかにも、前日飲まされたタールをブランデーに加えることで、心無い大人たちに仕返ししている。しかし復讐がピップに意識されていないのは、囚人からの脅しという口実の下で行われることで、囚人に罪を肩代わりさせているためだ。

なぜなら、ことあるごとに私は善悪のあいだを揺れ動いていたではないか(16章)

しかしピップの良心は罰を受けることも望むことで、道徳的には平衡を保とうとしている。タール入りブランデーではピップに嫌疑がかからぬうちに場は流されてしまうが、続けてポークパイの紛失も明らかになると、堪えきれずに逃げ出してしまっている。これでは自分が犯人だと自白しているようなものだ。

恐怖で甲高い悲鳴を発したのが、心のなかでのことだったのか、それともみなに聞こえる実際の声だったのか、いまだにわからない。(4章)

ピップの目的が復讐のみにあったなら、しらばっくれて平然とした態度をとっていればよかった。しかしピップの良心は不正を許さず、道理に反した行為を償うようにと叫び声をあげている。
ピップが思わず逃げ出したのは、罰から逃れるためではなく、黙ってやり過ごすことに良心が耐えきれなかったためだ。直後に兵隊の来訪が無ければ、ピップは大人たちに問い詰められ、洗いざらい罪を吐き出すことになり、罰を受けていたはずだ。しかし晩餐は中止となり、さらに盗みの罪を囚人が被るために、ピップは受けるべき罰を受けずに、復讐だけが成し遂げられてしまう。

たとえ囚人が現れなくても、募り募っていたピップの不満はいずれ何らかの形で噴出されていたはずだ。ピップの前に現れた囚人とは、たまたま反抗の捌け口を作る機会を設けたにすぎない。

3.
ピップは囚人を恐れていながら、同時に相手から歓心を買う期待を抱いてもいる。食料を持っていくと「なおさら喜ぶのではないかと思った」などと、進んで声をかけようとしたり、相手の体調を気にかけたり、自らの働きの収穫を得ようとパイがもたらした効果を尋ねる。

「美味しいみたいでうれしいって」
「ありがとよ、小僧。本当に」(3章)

姉はピップが口を挟むと怒り、質問にも応えてくれないが、囚人はピップの優しい性質を認め感謝もしてくれる。初対面で「犬ころ(You young dog)」と呼ばれたピップが、今度は囚人を「犬」のように見返したり、さらには「わが友人」などと呼び出すなど共感を寄せ始める。

「おい、犬ころ」(1章)
犬と男の食べ方がかなり似ていることに気がついた。(3章)

鍛冶屋を訪れた軍曹は気難しい姉に気の利いた対応を見せ、パンブルチュークのことは上手くおだてあげる。彼らが同士のように親しくなると、ピップは急に囚人への庇護欲を呼び起こし、「わが友人」などと呼びだし始めている。軍曹が自分を虐める姉やパンブルチュークと結託したことで、ピップにとっても敵と映るのだ。
囚人から裏切りとは「猟犬」に値する、と警告を受けていたが、軍曹らと沼地に向かうときのピップは「猟犬」に見られないかと恐れている(4章)。ピップは既に兵隊やジョーから守られ、恐怖から解放されていても、囚人からの信頼は守りたがっているのだ。囚人が捕まってもなお「わが囚人」と呼び続けている。

「それは嘘の大元から出てきて、ぐるっと回って同じところへ帰っていく」
「嘘をついて卑しくなくなろうなんて、筋ちがいもいいところだ」(9章 ジョーの台詞)

ピップは囚人との間に生まれた奇妙な絆を、親友であるジョーにも話すことができない。ジョーについた小さな嘘は次第に膨れ上がっていき、ピップのその後の運命を大きく曲げてしまう。
サティスハウス訪問後には(ここではエステラから「犬」にやるように食事を出される)、姉とパンブルチュークに嘘話を聞かせることで、初めて大人たちを出し抜く経験を得ると、ジョーやビディからの忠告にも耳を貸さなくなっていき、果ては自分自身まで欺くようになる。財産の相続者になると(ここでは服を新調しながら「犬」用の買い物をする童謡を思い出す)、匿名の恩人がハヴィシャムであると思い込み、いずれ自分とエステラを結婚させてくれると信じようとする。ハーバートからの懐疑的な見解(30章)も受けとらず、ジャガーズの話に疑念を持っても「猜疑心を抱いている」(36章)などと、人物像を捻じ曲げてまで払拭する。エステラから「ハートが無い」と度重なる警告を受けても聴き入れようとしない。

囚人と約束した砲台のある場所とは、ジョーと徒弟になる約束をした場所でもあった。この事件で囚人と結びついたピップは、ジョーとは分かち合えない世界を心の中に持つことになる。再びその囚人が登場した時、彼は「二番目の父親」を名乗り、ピップを「息子」と呼ぶ。ここでいう一番目の父親とは、もちろんジョーにあたる。

「くそみたいな犬っころが、それでも精いっぱい胸を張って紳士を作れた」(39章)
いちばん強い犬歯でかぶりつくために首を傾げて、飢えた老犬にそっくりだった。(40章)

二人が再会すると囚人は自分を再び「犬」に例えて語り、ピップも彼が食事する姿を「老犬」のように見るなど、二人の最初の出会いが再現されていく。ジョーの忠告通り、逃れた嘘が「ぐるっと回って帰って」くると、ピップは自分が卑しい犬でしかなかった立場を思い知らされることになる。

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