ピップの劣等感と優越性(1) 大いなる遺産/ディケンズ

1.
姉や周囲の大人たちから暴力まがいの躾けを受けて育てられたピップは、目上の者に敬意を抱くことを教え込まれ、いつも礼儀正しく、周囲を観察する能力に長けている。そして大人たちの気を損ねないかと目ざとく窺う、敏感な気性が根付いてしまっている。ささいな尊厳を守るより身を守る選択を否応なしに迫られてきた幼い子供は、初めて会った見も知らぬ大人相手にも気を配るような従順さが身についてしまっている。

「言われたことをちゃんと憶えてろよ。若い男のことも忘れるな。さあ、家へ帰れ!」
「お……おやすみなさい」私はつかえながら言った。(1章)
「今晩この子が感謝しなかったら、一生感謝することはないでしょうね!」
私は、わけもわからず感謝しなければならない子供として可能なかぎりの感謝の表情を浮かべた。(7章)
男に「ありがとうございます、けっこうです」と言って、向かいの長椅子のジョーが空けてくれたところに座った。(10章)
立ち止まるのが礼儀だったのだろうが、ミス・ハヴィシャムが肩を引くので、しかたなく速足で歩き続けた。私がそうさせていると彼らに思われるのが恥ずかしかった。(11章)
「あなたはどうなの?」ミス・ハヴィシャムがカミラに訊いた。ちょうどそのときカミラに近づいていたので、当然私は止まるつもりでいたが、ミス・ハヴィシャムがそうさせなかった。私たちは歩きつづけ、私はカミラにひどく失礼なことをした気になった。(11章)
私も「やあ!」と返したが、礼儀上”きみ”のほうは省いた。(11章)

ピップが幼年時代に受けた暴力は、人目が気になって仕方のない気弱な性質と深く結びついている。サティスハウスを訪れた後、ピップが紳士になりたいと哀れな夢を抱いてしまったのは、社会的地位を高めることが精神的な安定を図るための最良の手段だと思い込んだためだ。紳士になれば虐められることも、惨めさを味わうことも、不安に脅かされることも無い。エステラに惹きつけられたのも、高慢な態度や人を見下せる自負心を、自分も持ちたいと望んだためだ。自分の臆病な性格を変えたいピップの目には、無遠慮で底意地の悪いエステラの振る舞いが魅力的に映っている。そのためピップは「紳士」となると、礼儀を無礼に変えて、横暴に振る舞おうとし始めるのだ。

私は赤ん坊のころから、心のなかで絶えず不正と闘っていた。片言を話しはじめた時期から、気まぐれな暴力で無理にしつけようとする姉は正しくないとわかっていた。私を手で育てたからといって、叩いたり小突いたりして育てる権利はない。そう固く信じるようになっていた。(8章)

ピップはエステラに侮辱され泣かされた後に、初めて姉たちから受けてきた暴力の不当性について語っている。これまで肉体的な暴力には自らの正当さを信じてこられたピップだが、がさつで卑しい身分だと見下され侮辱されると、エステラの言い分を全て認めてしまうのだ。ゲームに負かされ知識や教養でも劣ることを見せつけられると、我が身を恥じてしまい涙を流して壁を蹴る。エステラとハヴィシャムに叩きこまれた身分差による上下関係が、ピップの野心の根源となっている。

2.
ピップの劣等感は自分が孤児であり、また自分を「手」で支配してきた姉が、事実上母親代わりを務めた恩人であるという屈辱的な境遇から生まれている。ピップはサティスハウス訪問前から、ジョーが自分の生い立ちについて語ろうとすると拒んで話を止めている。

「おまえについて言うと、小さくて、ひ弱で、みすぼらしくて、いやほんと、あのころの自分を知ってたら、つくづく嫌になったと思うぞ」
あまりありがたい話ではなかったので、私は言った。「それはいいから、ジョー」(7章)

10章では村の酒場で、ジョー、ウォスプル、ヤスリを見せつける見知らぬ男と席を共にして、たわいない会話を交わす。話題がピップとジョーの関係性に及ぶと、見知らぬ男はジョーの息子でも甥でもないらしいピップについて、「だったら、いったいなんなんです、この子は」と、説明を迫る。すると、ウォスプルがこの問いに答えているのだが、語り手はここで会話を打ち切っている。代わりに「ここで述べておきたいのだが」などと、ことあるごとに自分の髪をいじられてきた憤りについて記述し始めるのだ。
ピップがウォスプルの話を記さず、話題を逸らしているのは、この時自分自身の生い立ちが語られることで、とてつもない苦痛を味わっているためだ。孤児である自分の出生も、憎き姉が自分を育ててくれたという事実も忌々しく感じているピップはウォスプルの話を書き記すまいとして話題を変えている。ここでピップは自分の身の上話をぬけぬけと語っているウォスプルへの心情を、髪いじりの話に取り換えて屈辱を表現している。
ピップは姉に感謝の気持ちなど微塵も持ちたくないと、固い決意で抵抗しているからこそ、幾度も大人たちの「感謝の心を持て」という言葉が心に響いている。

自分を迫害してきたその大人たちが、サティスハウスの主からの招きには舞い上がって喜ぶ。ピップを端金坊主(4章)などと呼んできたパンブルチュークもサティスハウスでは門前払いを食らい、エステラには従わざるを得ない。上流階級の威光を目の当たりにしたピップは、自分もその力を持ちたいと願う。ハヴィシャムが財産を与えてくれるという途方もない期待をはじめに抱いたのも姉であった。

姉たちは、ミス・ハヴィシャムが私に「何かをしてくれる」と信じて疑わなかった。問題はその、何かがどういうかたちをとるかで、姉は財産だと言い(9章)

ピップは幼いころから大人たちに理不尽を押し付けられてきながら、結局は彼らの価値基準に従ってしまうのだ。自分自身の不幸は地位も財産も無いことが原因だと思い込み、絶対的な安心感を得るためには裕福な紳士になることが必要だと信じ込む。
ピップはサティスハウスに招待される前からビディに字や計算を教わったり、ジョー相手に得意げに披露したりしている。ジョーは夫人の前では決して博識ぶりをひけらかさぬようにと警告をしているが、逆に言えばピップの上昇志向とは初めから姉を出し抜く方法と結び付けられていたといえる。

このときのキスは、がさつで卑しい少年に与えられた駄賃のようなもので、なんの価値も無いように感じられた。(11章)

サティスハウスで若い紳士にボクシングを挑まれ勝利すると、その褒美としてエステラにキスさせてもらうが、身分の低さを恥じる気持ちの方が勝ってしまうために全く喜べない。若い紳士のブロンドの髪や、見たことも無いステップ、知りもしない「正規のルール」、敗れても勝者を讃える姿勢などに紳士的な振る舞いを見せつけられたピップは、自分が高い身分の紳士には程遠いことを自覚させられたためだ。ピップの望みとはエステラに愛されることではなく、エステラに相応しい地位を築くことにある。階級的偏見に染まったままのピップは、次章でもまだ若い紳士を傷つけたことで罪に問われるのではないかと、上流階級の権威に恐れをなしたままでいる。ピップの臆病な性格が、紳士像を歪んだものへと変えていく。

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