1.
「わからない」私は不機嫌に答えた。(17章)
「射止めたいのなら、これもあなたが一番よくわかってると思うけど、その人に射止める価値はないと思う」(17章)
紳士に憧れた理由を尋ねられても、答えられずにいるピップ。改めてビディの勤勉さや献身ぶりに気づくと、高慢なエステラと比較して考えて直してもみるが、エステラに惹かれる気持ちは変えられず、紳士になる夢も諦めがつかない。結局は自分の心の内がよく分からぬまま、財産を譲られ、ロンドンへと発っていくことになる。
だがピップが直視しようとしない紳士の理想像は、現実でドラムルの姿となって現れる。財産と爵位を鼻にかけ、横柄な態度を取るドラムルに、ピップは抗いがたい魅力を感じている。周囲の人間を見下し、無遠慮に振舞っているドラムルを、ピップは「愚鈍」とか「鈍重」などと呼んでいるが、これこそピップの望んでいる紳士の実像であり、幼いピップに侮蔑の言葉を投げつけ、傲慢な態度を見せつけたエステラと全く同じ性質のものなのだ。ドラムルの振る舞いにピップが反発を抑えきれずにいるのは、神経過敏で人目を気にして異様に気を配ってしまう、そんな解消されない自分のコンプレックスが刺激されるからだ。
ジャガーズ家に招かれての晩餐で、ピップはジャガーズに自分の欠点をふたつ指摘される。金遣いの荒さと、格差の誇示についてだ。ピップはジャガーズの助言を真摯に受け止め、行いを見直すべきなのだが、自分の本性を認めたくないばかりに、この後ドラムルに自分の欠点をそのまま投げ返してしまう。
「スタートップの気の弱さをひどくおもしろがっているように見える」(26章)
またドラムルに浪費を指摘されて苛立ってしまうのは、前章で「わずか数か月で信じられないような金額を使ってしまった」ことを気に病んでいたためだ。しかしピップはジャガーズの忠告を聞き入れずにドラムルに対抗するかのよう、次の章では借金を重ねるほど金遣いは荒くなり、さらには使用人を雇い出してまで身近に主従関係を築き上げ、格差を実感しようとする。
さらなる浪費を重ねても、召使を雇っても、ピップは充足するどころかますます悩みの種が増えていくだけだ。借金問題は34章で再び蒸し返されると、耐えかねたピップは召使の胸ぐらをつかむという暴行を振るう。すると以降、召使は出てこなくなり、マグウィッチが再訪する3部に入ってから、ようやく彼の代わりに別の手伝い女二人が来ていることが明かされる。召使の交代はピップが望んだ上下関係の構築に失敗した事実を告げている。ピップはドラムルのように体裁を飾れないばかりか、哀れにも逆に手伝い女に気を配ることでしか関係性を保てずにいる。
一方で、もう一人の友人であるスタートップは、ドラムルから侮辱されようが意に介さず、逆に協調性を示せる度量の広さがドラムルの気に障っている。スタートップが相手ではドラムルは空威張りするばかりとなり優位に立てない。ピップは間近にスタートップという良きお手本がいながら、彼の美点を見習ったりはせず、ドラムルに対抗してますます悪癖に拍車をかけるばかりとなっていく。こうして人を見下げる態度を改められなかったために、そのツケが終盤で報復のように我が身へと降りかかってくることになるのだ。
相手がもっと立派な人間だったら苦しみの種類も程度も違っていたはずだ。(38章)
ドラムルがエステラのために乾杯すると、ピップは反発する。エステラがドラムルを近づけると、苦痛を感じて憤る。ピップはエステラには立派な相手が相応しいなどと思い込んでいるが、そもそもビディの言っていた通り、立派な紳士であればエステラに惹かれることはない。現にハーバートなどはエステラに一度会っただけで、強情、傲慢、気まぐれだと断じている(22章)。ところがピップはドラムルと同じ様にエステラの周りをうろつく蛾になってしまう。
ドラムルら男たちを「罠にかける」べく、魅力を振りまいているエステラだが、始めからピップには「心がない」「やさしさがない」(29章)と本心を打ち明け、時には素顔で接しようとしていた。
「ええ――ほかの人もたくさん。あなただけを除いて。」(38章)
しかしピップはエステラの忠告を聞き入れず、エステラ本人の意思までも無視してアプローチを繰り返す。結局ピップはドラムルと張り合う姿を見せ続けたために、他の男たちと同様、外見のみに目が眩んで本心など見えていないという事実に、エステラは気づいてしまうのだ。
2.
ピップは自分と同じ孤児であり、同じく「手で」育てられたビディに、哀れな夢を共感してほしいと望んでいる。ピップの野心はビディには否定されてしまうが、その直後にオーリックが現れ、彼がビディに好意を向けていることを知ると、「厚かましい」と腹をたてている。
ピップはオーリックが不釣り合いな相手を求めることを許そうとしないくせに、自分はそれ以上に出過ぎた望みをエステラに向けているのだ。この矛盾にピップは気づかないばかりか、オーリックを鍛冶屋からクビにしてもらうよう働きかけたかったと述べ、後にオーリックがサティスハウスの門番として雇われると(この時オーリックの方は友好的に接していたように見えるが)実際にクビにさせる。姉の葬式では、いくら金がかかってもこの土地から追い出してやると息巻いている。
自分自身が卑しい労働者の身分であるという意識から逃れられないばかりに、ピップはオーリックを見下して格差を意図的に実感しようとしているのだ。門番をクビにされたオーリックはコンピーソンらと結びつくことになるため、ピップはその報いを大いに受けることになる。
オーリックに捕えられ、「おまえは贔屓されたのに、オーリック先輩はいじめられ、殴られた」(53章)と、積年の恨みをあらわにされても、ピップには一向に事実を認めるつもりがない。オーリックが言う贔屓がどれほど存在したのかはピップが記述していないために不明だが、ピップが町へ行くため休みを取った時点では、ジョー夫人は黙って聞いていたのに、続けてオーリックが休みを求めた途端にガミガミと文句を言い出している。オーリックが焦って執拗に休みを要求していることからも、普段から扱いの差があった様子が窺える。こうした不公平が当たり前のようにガージェリー家には根付いていたのではないか。怪我を負ったジョー夫人がオーリックと和解して「家にすっかり根付いて」(17章)からも、まだピップは邪険に扱おうとしている。
オーリックは同じ鍛冶屋で働き、先輩でもあるのだが、ガージェリー家の一員ではないためにピップ以上に差別的な扱いを受けてきた。オーリックからはピップが常に自分の存在を脅かす狂暴な「狼」に見えている。
ドラムルは実はピップの邪魔立てなどした事は一度も無いのだが、ドラムルの優位性を意識してしまうピップは、わざわざ騒動を起こしてまで(二度も)ドラムルに楯突く。自分が特別扱いを受けない不満から、格差意識は下へも向けられ、折に触れてはオーリックを妨害し、意図的に格差を生み出そうとする。しかしピップはドラムルのように体裁は飾れず、自分がオーリックと同じ労働者の身分であるという意識からも抜け出せない。ドラムルとオーリックの存在は、ピップが意識したがらない暗い面をよく映し出している。最悪な敵とはドラムルでもオーリックでもなく、ピップの心の中にいる。
ピップは自分の野心の根源や、不純な動機は都合よく見落としてきた。それらがドラムルへの嫉みや、オーリックへの迫害となって表面化されている。そのためピップは終盤で、その報いをドラムルとオーリックから受けるのだ。